イギリスとヨーロッパ/細谷雄一編(その2)

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「イギリスとヨーロッパ」 細谷雄一編
勁草書房  2009年1月15日 単行本初版

 書評「その2」

 1950年代後半、フランス、ドイツ、イタリア、ルクセンブルグ、ベルギー、オランダ6か国による「超国家的統合」プランが明示され、そのなかにEEC(欧州経済共同体)構想も含まれる。

 イギリスのアメリカとの関係は、ある意味で戦後の日本と酷似し、従属的なものであったにも拘わらず、そこに固執することで欧州大陸の一国(One of Them)になることをよしとしないプライドと矜持に固執した。

 経済的にも衰退期に入っていたイギリスはコモンウェルスとの二国間貿易に特恵関税と数量割当制を設け、ポンドを引き続き決済通貨とすることに成功、この体制を大戦後も継続し、コモンウェルス(カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、シンガポール、香港、南アフリカ、インド、パキスタン、セイロンなど)はイギリスにとって欧州市場よりも大きな輸出市場に成長した。

 第二次大戦後、戦後復興を開始したイギリスを含む欧州各国の悩みは巨額のドル赤字と、それに伴う輸入原材量不足による生産活動の停滞。この危機を救ったのがアメリカの1847年以降に行なわれたマーシャルプランによる巨大援助であり、イギリスはヨーロッパ側のまとめ役として振る舞い、援助受け入れ機構を発足させ、1948年以降は、アメリカを大陸防衛にコミットさせるNATO形成の牽引役を努めた。(いうまでもなく、背景には東西冷戦がある)。

 欧州の復興を支援しはじめたアメリカはこの財政負担を正当化するために、欧州の経済統合というプランを強く後押しすることになった。ただ、イギリスに対しては元宗主国であり、欧州他国とは異なる扱いをした。具体的な例としては、ポンドの備蓄通貨としての特殊性を認めた。

 1950年、朝鮮戦争が勃発、アメリカは西ドイツに対して即時再軍備を求め、12個師団の規模をNATOに組み入れるという案を出した。

 (ドイツが東西に分断されている事実は、欧州全体にとって大きな問題であり、ソ連との会議は数え切れぬほど各地でもたれたが、良い結果に結びつくことはなかった。また、ドイツが軍備を持つことに対しては、過去の経験から、欧州各国、ことにフランスにとって恐怖心がなかったということはありえない。また、アメリカが西ドイツに対しては再軍備を求めたのに対し、朝鮮半島により近い日本には求めなかったのは、一国が分断されていたことに発した顧慮であろうが、このとき、もしアメリカが日本に再軍備を求めていたら、どうなっていただろうか?)

 戦後、イギリスが欧州統合に積極でなかった理由の一つは、戦後の欧州が一様に疲弊していたことで、そこに入ることは軍事的関与という重荷を背負いこむことになるとの危惧があった。

 1952年、フランスがアメリカ、イギリスの意見を容れ、ボン条約で西ドイツの主権回復が実現したが、NATOへの加盟には賛意が得られなかった。1954年になって、破綻しかかった西ドイツ軍のNATO加盟を実現させる条件として(1)西欧連合に西ドイツも加盟する(2)西ドイツは軍備を自主規制する(3)イギリスは50年間、イギリスの負担で西ドイツに駐留軍を置くというものだった。

 ローマ条約に基づく第一回EEC域内関税削減は1959年1月に実施されることになっていて、共同市場の機能開始の直前に提案され、イギリスが中軸となって進めていたFTA(欧州17か国による工業製品の自由貿易を目指すもの)の交渉は挫折の憂き目に遭う。

 欧州の統合に関するイギリスの判断基準は「超国家的に」という点への忌避感にあった。ある意味では、ポンドへの固執であり、欧州大陸を頼りにしなくてもコモンウェルスを背景に自国の矜持を維持できると考える過剰な自信、傲慢さが根にあったというべきだろう。

 1959年には、EEC6か国はローマ条約に規定されていたとおり、一回目の域内関税の引き下げと、輸入量制限の緩和に踏み切った。

 イギリスはEECに対抗すべく、EECに加盟していなかった7か国、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、ポルトガル、オーストリア、スイスと、より小規模な工業製品貿易を前提とした会議をストックホルムで開催、1960年に正式に発足。これを実現したイギリスのマクミラン首相には、孤立化を防ぎ、いずれEECを巻き込んでしまおうとの目論みがあった。とはいえ、北欧諸国には互いに関税同盟が以前から存在し、この構想にはそもそもヒズミがあり、相互の結束感は粗雑だった。ただ、勢力のバランスを維持することがイギリス外交の伝統ではあった。

 一方、EECでは1960年には関税同盟の形成に向けた動きが加速され、政治連合が提案され、排他性を強める動きが進行、マクミラン首相はこれから排除されることに危機感をもった。

 一時、アメリカが仲介し、EECとの大同団結を提案したが、この構想もフランス政府にとって受け容れがたく、拒否の姿勢を崩さなかった。

 東西の冷戦対立が深まるなか、イギリスにとり、コモンウェルスとの貿易も頭打ちになり、EECへの加盟という道を採らざるを得ない状況に陥っていた。一方、フランスのドゴール大統領にとって不快なのは、イギリスが常に調停者として動こうとする姿勢で、アメリカの後押しもドゴールの姿勢を変えることはできなかった。ただ、同じ加盟国のイタリアが欧州の政治的、経済的分裂を防ぐためにもイギリスのEEC加盟を支持したことがマクミランを心強くさせはした。

 イギリスは、この時期、コモンウェルス、欧州、アメリカという三つのサークルのなかで、いかにして自国の権益と矜持を守るかだけでなく、経済的に立ち行くかに意を注ぎ、ために農業国の多いコモンウェルスの利害と、とくにフランスの利害とが衝突することも予測され、EEC加盟を求めるかぎり、イギリスとしては譲歩を迫られることを覚悟せざるを得ないことは自明だった。

 1963年、イギリスはアイルランド、デンマーク、ノルウェーとともにEEC加盟申請をしたが、ドゴールに拒否の意向を示され、失敗に終わる。

 (第一次、第二次、両大戦で国土が焼け野原になり、戦後アメリカから多くの支援を受けたフランスが1950年以降、ドゴール大統領が中心となって、EECの樹立を志し、イギリスを相手に欧州の支配者であるかのような発言をするようになったことに、私はドゴールという政治家の外交家としての質の高さを感ずる。パリの空港名をドゴールとしただけの人物であり人格だった)。

 1967年、イギリスは二回目の加盟申請を行なったが、これもドゴールによって拒絶された。

 イギリスは自らの国際的影響力の低下、ポンドの通貨としての脆弱さを自覚し、緩やかに方向転換していくことになる。国際収支の深刻な赤字は大英帝国の衰退を象徴するものであり、経済的な脆弱性も加盟を拒否された理由の一つになっていた。イギリスが加盟を実現するのは、ドゴールが退陣したあと、1973年になってからだった。

 イギリスの財政赤字は、1966年に47日間続いた会員組合のストライキによる輸出量の激減によって一層深刻となり、国際金融市場におけるポンドの信頼性を著しく喪失することになった。とはいえ、ポンドの切り下げはコモンウェルスやアメリカとの関係に亀裂を生み、その他地域にも経済的な不安定を惹起することになり、自国もある程度の期間、経済的低迷を余儀なくされるとの判断があり、切り下げには踏み切れずにいた。

 さらに、イギリスには、スエズ以東、シンガポール基地を中心とする香港、アデン、ケニアを含むインド洋全体の防衛関与のための資金を抑制できずにいたこと、西ドイツに自己負担で兵士を駐留させている支出があったことも、イギリス経済を悪化させる要因であった。とはいえ、「グローバルに防衛の役割を担っている」という自意識はイギリス政府にとっても、国民にとっても、必ずしも不快な感情ではなかった。

 イギリスはEEC加盟を実現させたあとも、ヨーロッパ統合の動きに積極的にかかわろうとはせず、「アメリカかヨーロッパか」という二者択一の外交課題が常時、脳裏を去来していた。

 1970年、ポンドの下落が止まらず、IMFから条件つきの融資を受けた。

 イギリスのソ連不信は根強く、イギリス国内ではKGBの不法行為が問題となり、1971年、ソ連国籍をもつ105人を非合法のスパイ容疑で国外追放処分とした。ソ連は報復措置として、モスクワのイギリス大使館員に対するビザ発給を遅延させ、駐ソ大使とソ連政府高官との接触を長期にわたり禁止した。

 1973年の時点で、EECに加盟した国は以下:

   フランス、西ドイツ、ルクセンブルグ、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリス、デンマーク、アイルランド

 EFTA加盟国は:

   アイスランド、スウェーデン、ノルウェー、オーストリア、スイス、ポルトガル

 1973年は、石油危機を契機に欧州全体が深刻な経済危機に直面する。

 1975年後半、ソ連は新たなミサイル防衛を対西側諸国に向け、SS20を配備、これに対抗するうえでアメリカ製のミサイルを配備する必要があると、英米の関係を利用しつつ、イギリスはリーダーシップを採った。

 一方、ヘルシンキ宣言は、ソ連は戦後ヨーロッパを承認したもので、「第二次大戦後の事実上の講和会議」と呼ばれた。国内の人権状況の改善を国際的に保障する、人的側面を国際管轄事項として認め、「自由移動」の円滑化を図ることに、東西35か国が初めて合意した。

 1979年の総選挙で、保守党のサッチャー首相が誕生、欧州よりアメリカとの関係を強化する方向に舵が切られた。背景として、ソ連のアフガニスタン侵攻や、欧州に向けたミサイル配備があった。

 サッチャーは1979年から1990年まで、11年半もの長期にわたり、党内クーデターにより政権から引きずりおろされるまで、政権を守り続けた。その当時の、国民一人あたりの所得はEC9か国の平均よりも低く、「英国病」を患っていた。

 以下は、ここまで読んだ私の印象:

 EC、EU、ユーロが実現されるまで、いかに長期にわたってイギリスが関与したり躊躇したり、ときにはアメリカの意見に左右されながら、何十回、何百回という会議がもたれ、かつ各国内でも、ことの是非をめぐって議論百出したか、そのあたりの詳細にわたる状況、事情、同じ国内でも人によって異なる意見など、欧州統合にあたっての風当たりの凄まじさとともに、推進者の苦労や熱意が如実に伝わってくる。

 また、あれだけ外交に巧みなイギリスがこの二百年間、自国の置かれた環境変化(とくに経済的衰退)のなかで、アメリカとの関係、ドミニオンを支配する者としての矜持、国際通貨としてのポンドへの固執、欧州でONE OF THEMになることの忌避感との闘い、苦悶のなかで現代を切り開いていく姿勢、手法には、「外交がない」と言われる日本には参考になることも、唸らされることもある。

 書評「その3」に続く。


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