イギリスとヨーロッパ/細谷雄一編(その3)

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「イギリスとヨーロッパ」 細谷雄一編
勁草書房 単行本  2009年1月25日初版 ¥2800+税

最終書評 その3

 ECでは、(1)個々の加盟国の収支を問わない(2)コンセンサスと妥協を重視する、という不文律があるが、サッチャー首相はこれを無視、国の経済が逼迫していることもあって、「負担金を返せ」と、きわめて非外交的な発言をくりかえし、結果的に奏功する。ECの予算は機能的な多角化が進んでいる最中、総予算枠の拡大が急務であったにも拘わらずである。

 (「泣く子と地頭には勝てぬ」という日本古来の俚諺を想起させる)。

 1985年以降、払い戻しが実効され、イギリス国内には反欧、反仏の世論が高まり、大陸諸国ではイギリス抜きの統合まで語られはじめる。

 1982年、南米のイギリス領、フォークランド諸島をめぐり、アルゼンチンと戦争状態に陥るが、サッチャーは独力でこの問題を治め、同時に、アルゼンチンへの経済的制裁をEC内でとりつける。

 ECでは、政治協力の推進と単一市場の完成に関しては加盟各国のコンセンサスを得ていたが、イギリスは「特定多数決の限定導入」を考え、独仏は別の政治協力を、イタリアとべネルックス諸国は権限拡大をと、立場の異なる会議の様相に、主催国は困惑のあまり、次の議会の召集についての決議をとり、本会議を流会にして破綻を免れた。

 1985年、EC委員長、ドロールは域内市場、社会経済活動、文化条項、社会政策、通貨条項などを含めた草案をまとめたが、これがEC統合に向けて大きな転機を呼ぶ。

 1987年、予算額の策定と各国別の負担額の草案に関しコペンハーゲンでは決裂したが、1988年のブリュッセル会議で深夜までかかって妥協がなり、1992年には好景気も手伝って、市場は活性化する。

 ドロールの動きに対し、サッチャーは「それぞれの国が慣習、伝統、アイデンティティを保つからこそ、強力になるのであり、愚かなのはそれらをモンタージュ合成のようなヨーロッパ単一の個性に合わせようとすることだ」と発言し、欧州各国に衝撃をもたらす。

 ドロールは「個人は社会のなかに在って初めて開花する」という思考に基づき、サッチャーは「社会などというものは存在しない。個人は家族をベースに自由に活動するもの」との認識を示す。(日本とイギリスとのあいだには深く大きい谷が存在するようだ)。

 ソ連書記長として、ゴルバチョフが登場し、1989年8月には東ドイツ市民がハンガリー経由で西側に流入しはじめ、同年10月にはベルリンの壁が崩れた。

 サッチャーは冷戦の終結に対して全欧にみなぎる高揚感を戒め、「氷は解けるときが最も危ない」との有名な言句を残した。サッチャーにしてみれば、冷戦とドイツ問題こそがNATOやECが拠って立つ根幹であれば、冷戦の終結は向後の状況への予見を難しくさせるものだった。

 一方、ドロールはドイツ首相のコールとの連携を深め、フランスのミッテランはドイツ統一に懐疑的なサッチャーに傾斜していく。サッチャーにはドイツに対する本能的なまでの嫌悪と敵意がしみこんでおり、フランスにとっても、ドイツの強大化は脅威以外のなにものでもなかった。

 とはいえ、ミッテランは半年後には、「ドイツがECを」ではなく、「ECがドイツを」抑え込むという路線に実効性があり、かつ有利と判断、ドイツのコール首相との共同声明で、通貨統合に加え、政治統合の新たな政府間会議の開催を求めるという手法に切り替える。

 1988年には、理事会が「市場統合はもはや後戻りできない段階に達した」と言明し、EC委員長にドロールを再選、通貨統合のための新委員会を設置した。翌、89年、「ドロール報告」は三段階にわたる通貨同盟の青写真を描いた「単一通貨にいたる移行ステップ案」を示して受理され、1990年には第一段階が実施された。

 1990年、サッチャーは、ECとの軋轢が深まるなかで、首相を辞任したが、彼女ほどイギリス首相として例外的な人物はいなかった。その攻撃的な外交手法は外交史に残るものである。

 サッチャーを継いだメジャー首相の政治は「確信的妥協の政治」で、通貨統一に関し、オプト・アウト(選択的離脱権)をすべての加盟国に留保する権利を与える提案をしたが、フランスによって反対され、イギリスにだけその権利と共通社会政策の面でのオプト・アウト権が与えられた。

 (イギリスはECに加盟しなくてもいいと宣告されたも同然)。

 1991年、イラクがクエートに侵攻したとき、イギリスはアメリカとともにイラクと戦った。(このときの戦争でアメリカ軍にとって最も信頼でき効果のあったのは日本製のピン・ポイント砲撃を可能にする技術だった)。

 欧州統合を促進させる閣僚理事会では加盟国が拒否権をもつ分野が縮小、同時に欧州議会の存在意義も重みを増した。

 1992年、デンマークの国民投票では、反対が50.7%の僅差で、批准が否決されたことが欧州に衝撃をもたらし、批准反対派を勢いづかせた。フランスのミッテランはこうした風潮に水をさす心算で、フランス国内で国民投票を行なったところ、ミッテラン自身への不信任の高まりを反映、圧勝とはいかず、わずか50.95%で批准という薄氷だった。この結果は為替相場に反映し、欧州通貨の下落を招き、危機感を増幅した。

 同年、9月、暗黒の水曜日、ポンドは投機筋による投売り状態となり、蔵相が大量のポンド買いで応戦するも、下落は止められず、メジャー政権にとって回復不能な打撃となり、以後、イギリスは次第に孤立化を深める。

 1993年、デンマークで再投票が行なわれ、賛成56.8%で可決。その後、各国が国民投票を行い、順次、批准を達成、イギリスが条約批准したのも同年8月、1993年11月には「EC」が発足した。1995年、単一通貨の名称が「ユーロ」に決定。(それぞれの国がいつ、どの程度の率でユーロを批准したかについては説明がなかったが、こうした経済圏に入りたがる国は得てして貧しい国が多い。そういう圏内でどこかの国が莫大な負債を抱えて凋落したら、マイナスが全体に及ぶわけで、ユーロ圏への入国を決めるポイントを列挙して欲しかった)。

 1997年、イギリスは18年間の保守党支配を終焉させ、総選挙は労働党のブレア政権を誕生させた。

 アメリカのブッシュ政権は自らの価値観を一方的に押しつけ、自らを「善」と規定し、力の行使を「善」と認め、その行為によって影響を受ける他者の存在をきわめて軽く扱う傾向がみられる。自己の権力行使には無批判、無自覚の傾向、その結果がヴェトナムでの泥沼やイラクでの四苦八苦を招来する。

 一方、ブレア政権では相手が何を求めているかを予め吟味し、それを提供する姿勢を貫いたものの、ブッシュが独善的であるのに対し、ブレアは「お節介」とのイメージを強めた。

 ボスニア紛争時、ブレアはNATOとアメリカを武力介入させることで解決している。また、ロンドン、パリ、ブリュッセルを結ぶ列車「ユーロスター」の発着駅、ウォータールで、「イギリスはヨーロッパの中心となる」と演説、イメージづくりに巧みなところをみせた。

 「欧州の防衛は欧州独自の力で」とする欧州各国の考えと、イギリスの「アメリカの力を利用して」とする考えとに認識の違いが大きく、欧州統合においてイギリスの影が薄くなっていたとき、2001年のニューヨークテロが起こり、アフガニスタンへのアメリカの単独攻撃が行なわれたが、NATOもテロと戦う意志表明をしたものの、その後にイラク戦争を迎え、これにイギリスが積極参加し、欧州におけるイメージを悪化させた。

 2005年、イギリスがG8サミットの議長国とEUの議長国を同時に担ったとき、貧困撲滅を主たる課題と位置づけ、債務に苦しむ途上国への権利をG8で100%放棄させることに成功。とはいえ、これは一時的に債務超過に陥っている途上国を解放したにすぎず、長期的観点からの目安は示されていない。

 ブレアの政権崩壊後、これを継いだのはブラウン。

 総評を次ぎのブログに譲る。


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