魂の重さは何グラム?/レン・フィッシャー著

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魂の重さは何グラム

「魂の重さは何グラム?」 レン・フィッシャー(Len Fisher/1942年生/オーストラリア人)著
副題:科学を揺るがした7つの実験
訳者:林一(はやしはじめ)
2009年4月1日 新潮社より文庫化初版  ¥590+税

 本書には全八章が収められ、表題は第一章を飾っている。

 「魂の重さ」を測ろうとすること自体、キリスト教国に生まれた学者のやりそうなことだが、作者によれば、死に瀕している人間は死に至るまでのあいだに、体内から水分が減少し、体重が減ることは知られているから、魂の重さを測るためには、臨死状態の人間を重量を測れるベッドに乗せ、息を引き取った瞬間からの体重変化を記録することで得られると考えた。

 その方法による実験の何例かが記録に残っており、記録はアメリカ人医師のダンカン・マクドゥーガルによると、1例目は1オンスの4分の3が減少、2例目は1オンスの4分の3が減少、3例目は2分の1オンスが減少、4例目は1オンスの8分の3が減少と、人によって様々な結果が出たが、平均するとおしなべて「パン一切れの重さ」だったという。ちなみに、この実験は1900年代初頭に行なわれた。

 また、犬にも同じ実験を行なったが、全く変化は見られず、犬に限らず人間以外の動物には魂がないと結論した。「人間だけが特別な存在、神から地上に遣わされた聖なる生物だ」と言いたいらしい。

 一方、アメリカのランフォードによれば、(ドイツ軍の再編成に協力した男だが)、魂が死の瞬間に体を離れるとき、熱は液体が凍るときに離脱すると考えられ、容器に入れた水から冷却装置で熱を抜きとり、氷に変わったときに重さに変化が生じるかどうかを調べた。この実験自体は失敗に帰したが、次の実験で、細かい点を再チェックして再び実験した結果、魂の問題とは別に、「熱が重さをもたない」ことを証明した。

 作者は「精密なハカリは空気の対流を感じやすく、空気の流れが止むまでは目盛りの読みには何の価値もない。マクドゥーガルも対流の可能性を認めなかった。魂の重さを測る試みはどちらも空気の動きに敏感であるにも拘わらず」と結んで、結論を出さず、この章をしめくくっている。

 「魂」の話は、今後とも、人間どもの話題として継続されることだろう。少なくとも、魂というものが人間にあると信ずる人たちは。

 第二章にはガリレオ・ガリレイが採り上げられている。

 ガリレオはアリストテレス以来、2千年間、だれも試みようとしなかった二つの異なる重さの物体を同じ高さから同時に落とすことを行なった。

 1609年には自分で特製の望遠鏡をつくり、月の表面が平坦でなく、ごつごつした起伏をもつことと併せ、木星を回る四つの衛星を発見し、そのとき、彼は金星や木星が太陽を周回しているのと同じように、天界には木星を回る星が存在することを認知した。ガリレオの研究は、明らかに、すべての天体が地球を含め、太陽を中心とする太陽系というコペルニクスの考えが正しいことに気づかせた。

 ガリレオが「天文対話」を書いたとき、教皇は怒り狂ったし、32年前にイタリアのジョダー・ブルーノが「宇宙は無限かも知れない」とほのめかしただけで、火あぶりの刑に処せられた。

 ガリレオは18年間も教会によって自宅幽閉されたが、その時間を使って、「落体の正しい法則」を含め、多くの洞察を近代化の道に乗せ、現代の科学は今なおそれらに依拠した研究を行なっている。

 この話で、すごいと思うのはギリシャの科学者たちの先見性に尽きる。また、西欧の学者らの研究や成果がいかにギリシャの哲学、科学、数学に負うてきたかが解る。日本人を西欧の猿真似と嘲る西欧人だって、所詮はギリシャの、あるいはローマ帝国の猿真似から始まったのであり、日本人を侮る資格はない。

 第三章にはニュートンの話題。

 ニュートンの説のほとんどは正しく、彼が発見した三原則を用いてNASAは宇宙への有人、無人探査機を飛ばしている。ニュートン学説で間違っていたのは「光の本性」で、これに対し、ロンドン在住の医師、ヤングが「光が空間を波のように伝わると仮定すれば、明暗の領域も簡単に説明がつく」と示唆したのだが、ニュートンの支持者であったヘンリー・ブルームから匿名で攻撃と毒舌を受け、そのために、ヤングのアイディアは20年近く、無視され続けた。

 第四章には落雷と稲妻が俎上に上がる。

 1895年、アメリカのニュージャージー州の教会の鐘楼に落ちた雷は鐘の鎖を伝わり、会衆の一人、バリス夫人が身につけていた下着のあらゆる縫い目を切断したものの、外側の衣類は何の損傷もなく、代わって傍にいたミニー・フレイス嬢の金属性のヘアピンを溶かし、鋼鉄の骨組み入りのコルセットを伝わって、彼女の靴を吹き飛ばした。

 これ以降、避雷針として先端が尖ったものと円みを帯びたものと、どちらが有効かという議論が起こったが、最終的に、先端が多少の円みを帯びたものがベストであることが判った。

 オーストラリアでは、年に約60人が電話(携帯ではない)を使っている最中に落雷によって障害を被っている。

 アメリカには、七回もの落雷を受けながら、死なずにすんだ男性がいる。ちなみに、落雷で死亡するケースは世界で一年に2,000人、これはベッドから落ちて死ぬ人数と同じ。

 フランクリンが雷の正体を凧を使って調べた話は有名だが、避雷針がないとき、雷は普通は雲の底から放たれ、最も近い接触点へ落ちる。ために、樹木や教会の尖塔に落雷が多いし、多くもあった。閃光は強力な電気放電ではあるが、電気的な伝導性は無関係で、金属をつけてない人間にもよく落ちる。地面に横たわるか、できれば自動車のなかに入るのが最善の避雷方法。樹木に拠ったり、傘をさすのは最悪の事態を招く。

 (宇宙衛星船から見ると、地球には一日に5千から6千の雷による放電が見られるという話を昨今のTVで知った。さらに、アポロ12号が1969年に発射された日は上空に雲があり、雨模様だったにも拘わらず発射を強行し、地を離れた直後にロケットに落雷し、稲妻はロケット本体を伝わり地に落ちたが、ロケット内部の電気系統がおかしくなった。電気系統はNASAのメンバーによって遠隔修繕され、ロケットは無事に月面に到着、帰還したが、この日のことの経験から落雷や稲妻の可能性のある日に発射することを控えるようになったのではないかと推測する。昨日のエンディヴァーの発射も天候との関係で数日遅れたことが、そのことを証明している。とはいえ、飛行機が飛んでいるときに落雷を受けることは時々あることも事実)。

 本書で話として面白かったのは落雷の話までで、以後は専門用語の多発に加え、作者が生来もっているエクセントリックな側面が色濃く文章に表れ、頭痛に見舞われた。

 ただ、作者が言うように、昔の西欧科学者の発見や知見の多くは、当時、周囲から嘲笑を買うケースが多く、発見者の多くは職を失ったり、場合によっては教会の不興を買って命を失う結果を導いたものの、後日になって、当人たちが世を去った後に名誉が回復されたケースも少なからずあった。

 キリスト教という宗教がいかに科学的発展や新しい知見を阻害したかは周知の事実だが、現在でも、アメリカでは「ダーウィンの進化論」は聖書の内容に矛盾するとという頑固な宗教的思考の末に、未だに学校では教えない。いかなる宗教も所詮は大自然に感ずる脅威から生まれたものであり、造物主の存在抜きには大自然の仕組みを説明できなという単純な動機からであるが。

 本書は「魂の重さは?」とのタイトルと内容とのあいだに大きな乖離があるものの、上記したような内容なら、それはそれで面白く読めるわけで、タイトルは変えたほうがいいと私は思う。


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