時間はどこで生まれるのか/橋元淳一郎著

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「時間はどこで生まれるのか」 橋元淳一郎(1947年生/相愛大学人文学部教授、日本SF作家クラブ会員)著
副題:なぜ過去は変えられないのか
集英社新書  2006年12月初版

 時間に関しては、古今に多くの著作があるにも拘わらず、「なるほど」といわせるほどの「時間論」はなかった。理由は近代以降の哲学と科学の乖離にあると作者は言う。哲学者は現代物理学、ことに相対論、量子論を無視しているし、科学者は「時間がなぜ過去から未来に流れているくか」などという問いを設けようとしないかららしい。

 時間を単独で採り上げる限り、時間という謎は解けない。相対論が明らかにしたように、「時間と空間は互いに交換可能だ」という事実に着目しなければ、根本的な理解に結びつかない。ゆえに、意図したのは「時間論」ではなく「時空論」である。

 簡単に言ってしまえば、われわれが地球という惑星で進化を重ね、マクロの世界に居住し、たとえば人の誕生から死までをみる限りにおいて、時間というものが過去から未来へと流れるのは必然であるということだが、作者が意図する内容は意外に難度が高い。以下にそれを記す。

 「エントロピー増大の法則」は不可逆過程と密接に結びついている。マクロの世界ではあらゆる現象はことごとく不可逆であり、そこに時間の向きが現れる。太陽が周期的に昇り沈んでいくだけのことなら、そこに存在するのは円環的な時間であり、可逆な時間でもある。しかし、地球上の生物は、人間を含め、生まれては死んでいくという逆行不可能な日々にあるため、時間は過去から未来へと一方的に流れているとわれわれは信じている。

 エントロピーは以上のような不可逆過程を規定する物理量であり、エントロピーとは、直感的には、マクロな系の乱雑さを示す量と理解すればいい。

 「この宇宙に生命が誕生しなかった可能性も否定できない。それはエントロピーの増大の法則に逆らった秩序を維持する機構が『意思』を進化させなかった場合である。われわれ生命の存在は自然選択による進化という科学的方法しかない。この時間的逆行の世界ではエントロピーの現象の法則が成立してしまい、最初に存在したであろう無秩序は自然に秩序に向かう。考え得る多くの選択肢から秩序維持という、ただ一つの解を選んでなければならず、確実な方法として『意思』あるいは『自由意思』が進化してきた。こうして、かつて単なる自己増殖機に過ぎなかったものが本当に生きはじめ、そして『意思』が明確化することによって、自由に行動できるようになった。生命が時間のなかで生きるとはそういう意味である」。

 客観的宇宙には刹那において時間は生起する。一般的に宇宙には時間は生起しない。そこには「意思」が不在だからだ。また、「平衡宇宙」という主唱があるが、そんなものは宇宙にはない。

 もし、時間の逆行を経験できたとすれば、感覚の何十倍ものおぞましさ、奇怪さを感じるだろう。粒子ならば、逆行を観察するだけでさしたることはない。われわれには時間が逆行するだけの「反生命」があるにも拘わらず、その存在を本能的に受け容れられない。

 宇宙の自由構造と、そこから生じた刹那、刹那の意思が創造する時間が存在するのであり、実在とは何かはわれわれには不明のまま現れる。われわれの「意思」は刹那にしか存在せず、しかもその刹那は他人とは共有できない。なぜなら、それは時空の一点の事象に過ぎないから。

 宇宙はミクロな様相はもちろん、マクロな様相においても、相対論的構造をもち、宇宙はただそのように存在するだけである。われわれは刹那をこじあけ、そこに創造の自由を得ながら、限界はあるものの、未来の宇宙をどうするかの自由をもつ。即ち、われわれは宇宙の創造に参画しているのであり、驚異としかいいようがない。われわれは「意思」を誕生させ、時間を創造し、そこに「生きる」という自由を得、現に存在している。時間の創造こそが宇宙の創造である。

 宇宙初期にはエントロピーは小さく、完全な無秩序から始まった。その後、宇宙に秩序をもたらしたのは宇宙の膨張以外にない。膨張によって、温度が下がり、温度が下がったため、エネルギーは重力のポテンシャルエネルギーに変わった。

 相対論における時間と空間の関係は、一言でいえば、「実数」と「虚数」の関係にあり、時間は実数であり、空間は虚数。

 われわれが時間のなかに生きているということは、ある意味で、人間的、哲学的な事柄であり、物理学的にはニュートン力学では何の必然性もない時間性の概念が相対論では本質的な概念として浮かびあがってくる。

 マクロの世界になると、時間が立ち現れる。生命進化の結果として時間という概念を持っているからにほかならない。この世界を時間と空間という器に捉えることで、われわれは生き残れたのである。

 相対論は非因果的領域というものの存在することを明らかにするとともに、「私」は時間性のなかでしか存在できないことを物理学的に証明した。とはいえ、相対論は過去、現在、未来という「時間の流れ」を決して想起してはいない。相対論では過去と未来とは完全に対象的である。

 生命が生命である限り、感覚器官はどんな単細胞生物であっても、生きる「意思」を持っている。「意思」は進化の過程のなかから生まれてきたもので、生命の行動にはなんらかのアルゴリズム(あらゆる組み込まれた手順)がある。そして、時間の向きや流れもこの進化のなかから生まれてきたに違いない。

 時空の光にとっては、距離というものがなく、これが光の立場では時間も空間も存在しないという根拠。

 電子の波動関数はときとして正弦波を描き、また突如、一点の光となる。これを「波束の収集」と呼ぶが、明らかに時間対象ではなく、われわれには確率的にしか補足できない。それは我々がマクロの世界に生き、測定はマクロの世界で行なわれているからだ。

 宇宙全体のエントロピーを相対論的にどう定義するかは難しい問題、座標系を選ばない限り、同時刻は定義できないからだ。

 著作は薄い本だが、専門家の書く内容はしばしば難解。


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