ブッダは、なぜ子を捨てたか/山折哲雄著

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ブッダはなぜ子を捨てたか

「ブッダはなぜ子を捨てたか」 山折哲雄著
集英社新書  2006年6月初版  定価¥680+税

 正直に告白するが、私個人は宗教には全く関心がないし、むしろ宗教あればこそ、派閥も生まれ、互いの殺しあいの源泉になると硬く信じている(ことに一神教は)。

 これまでの経験で、同じ宗教でも、仏教が最も融通が効き、異なる宗教と共存できる唯一の宗教だという話をなんども耳にした。そうした経緯があったたことと、本書の帯広告に「わが子に悪魔と名づけたブッダ」という、数年前に日本でこの命名が全国的にニュースで流され、役所が拒絶したことを想起し、この際、仏教の「ぶ」の字くらいは学んでみてもいいと思い、本書を手にした。

 「現代の日本が抱えている少子化高齢社会は、死のイメージが生のイメージを凌駕し、「親捨て」「子捨て」の時代がいよいよ訪れたように感ずるという言葉から本書は始まる。

 家をもたない、家族をもたない、家族から離れていって人々のなかに入っていく。これはちょうどイエス・キリストにも仏陀にも共通する事実だと指摘。このような危機意識から、本書は生まれたという。

 仏教を世に送り出した人物は、紀元前5世紀、北インドのシャカ族出身の王子だった、シッダールタ太子と呼ばれていたが、初めての子ができた直後に、妻を捨て、子を捨て、むろん両親を捨て、悟りの道に進む。彼は性愛に没頭したことへの自己嫌悪に苛まれ、愛欲の結果としての子は「罪の子」だと断罪する。

 (「自然への反抗」とも「人間否定」ともとれる。愛欲は自然が人間に与えた普遍的な行為だから)。

 仏陀は、当時はまだ釈迦と呼ばれていた時代だが、欲望にまつわるわずらわしさからの逃避願望が肥大化して家を出たということらしいが、「現実逃避」というイメージがまとわりつく。

 また、釈迦は母親の脇の下から生まれ、釈迦の子は妻の子宮内に6か月とどまっていたという伝聞は、イエス・キリストの処女受胎と同じく、いずれも後世の人間(大方は弟子たち)が世俗的なものを拝し、美化する詐欺的、粉飾的な「伝聞の創造」をやるのに酷似している。

 ここまで書いた筆者は唐突に「スマトラ島の大地震と大津波」のことを持ち出し、両親も親戚も死に絶えた家庭に、赤ん坊が一人生き残っている映像を凝視しつつ「この子は希望の星か?」それとも「絶望のシンボルか?」と自問したという。

 仏陀といえば、生まれたばかりの頃、七歩歩いて、右手で天を、左手で地を指し、「天上天下唯我独尊」といったと告げられているが、後世の「つくり話」というしかない。

 (人間とは、なぜ、こういう根も葉もない嘘話をでっちあげるのだろうか?)

 筆者にとって、「自分の子に悪魔と命名した事実が、「仏伝」というものに対する躓(つまづ)きとなったと告白する。「悪魔」はサンスクリット語の「蝕」(日蝕や月蝕の蝕)にあたり、光を奪い、妨げ、障りとなり、覆うという意味から派生して「悪魔的存在」とのイメージがつくられた。

 (所詮、宗教は大自然への畏敬、恐怖から始まるもの)。

 イギリスがインドを植民地支配したとき、ガンディー(1869-1948)も子を捨て、「非暴力」という戦略を掲げ、独立を最終的に実現した逸材だが、仏陀の「不殺生」が念頭にあって、それを復活させた印象が強い。仏陀とガンディーに共通するのは愛欲との決別、制御がテーマであること。ただ、仏陀の不殺生は対生物世界全体を指すが、ガンディーの非暴力は人間界におけるそれを意味する。

 (そのインドがいまや核武装をし、隣国のパキスタンとことを構えている実態をガンディーはあの世でどう思っているのだろうか)。

 仏教は中国、タイ、チベット、ネパール、ベトナム、ブータン、カンボディア、スリランカ、中国、韓国、日本に生き残り、仏教が興ったインドの大半がヒンドゥー教徒である。

 (なお、ヒンドゥー教は形や内容には若干の違いはあるが、バリ島のバリ人によっても継承されている。むろん、インドネシアはイスラム教徒が90%を占めているが)。

 仏陀が入滅後、すぐ弟子たちは革新派と保守派に分裂したとは、いまもむかしも変わらない人間性というしかない。

 仏陀の究極の教えは「自己を捨てる」ことだった。その意味で、仏陀の教えは宗教というより哲学的認識に近いとされる。

 インドで生まれた仏教はまず、西北部のガンダーラ地域でギリシャ文明やキリスト教文明と接触し、中央アジアの回廊を通過するにあたって北方遊牧民の異風な生活文化と遭遇、中国、朝鮮半島へと進出するや、漢字文化圏の強い洗礼を受け、釈迦が生まれてちょうど1000年後(6世紀)に日本に到達する。その時点で、仏陀の説く内容は大きく変容をきたしていたし、日本人も、自分たちの背丈に合致するような形で受け容れた。日本で仏陀の教えが血肉と化したのは「無常観」と「浄土イメージ」である。それはちょうど日本における儒教が発信国の中国や経由国の韓国とは異なった形で受容されたのと同じ。

 仏陀のいう「世の中は泡沫(うたかた)のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。一切の形成されたものは無常であると観るときに、人は苦しみから遠ざかり、離れる。これこそが人が清らかになる道」といったが、言葉は乾いた、哲学的な無常観であり、日本の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という叙情的で詠嘆的な無常観とは根本が違うと作者は語る。

 仏陀はいう「人生は苦、それはものにこだわるから。一切の欲望を消滅させ棄てることが悟りの境地であり、苦の消滅にいたるには正しい修業を行え」と。 つまりは、「我を捨てること」「エゴの否定」であり、西欧が主唱する「個の確立」とは背反する思想。

 仏教はヒンドゥー教の嫡出子であった可能性もある。仏陀はカースト(ヴァナル)的差別のなかに生きる人間は真の人間ではない。それは単なる目に映ずる人間、幻影に過ぎない。生ける屍といってもいい」といい、ヴァーチャル人間からリアル人間への蝉脱(せんだつ)を説いた。インドでは、時代とともに、仏教は小乗仏教となり、軽視され、自分独りで悟りを開く生き方は独善的であると批判される対象になってしまう。

 こうして、歴史が下がるにつれ、仏陀の原点が忘れ去られていった。仏陀の入滅後、1000年のあいだに、その命脈は本国で絶たれ、部分的にはヒンドゥー教にのみこまれていった。

 仏教はむしろ、インド本国より、他国がその影響を多分に受けることとなる。

 インドのマウリヤ王朝やダブダ王朝、中国では後漢や唐の王権および元王朝の成立にとって仏教が欠かすことのできない思想、理論武装となった。チベット王国や朝鮮の新羅王権、スリランカやタイ、カンボディアなどにも広まった。仏教がそれぞれの地域で国家や社会秩序の形成に果たした役割は大きい。

 聖武天皇は奈良時代、東大寺を建立し、教化政策をとり、平安時代には最澄が比叡山に天台宗を開き、空海が高野山に真言宗教を創始して、鎮護国家の礎を築いた。日本における仏教の特色はどの地域においても、支配者の民への攻撃性を緩和することに貢献し、人心の安定に寄与した。

 (寺や僧侶が堕落し、排他的で、庶民を威嚇し、食や金銭を強要した時代もあったが)。

 とはいえ、日本では禅、神道、儒教、道教との相克、影響を否定できず、衝突と抑圧のプロセスを経て変質していった。

 一方、小乗仏教はスリランカ、ミャンマー、ラオス、カンボディアで受容され、その地域の全般の生活様式に浸透した。

 以後、中国からは、法顕、玄宗がインドまで足を伸ばし、新紀元を画した。日本からは空海、最澄、道元なども中国にわたり、また明治期に単身チベットに潜入して経典をはじめ多くの文物を持ち帰った河口という男もいる。他に、法然、親鸞、日蓮なども旅の僧で、瞑想と反省によって、独自の思想を体系化した。

 (こういう傑物が世に出る時代に共通するのは、自然災害や、支配者による圧政などで民が疲弊し、何かにすがりたい時である)。

 さらに、日本では死者を崇拝する先祖崇拝の気風があり、人間は死んで同時に「仏」になるという観念があったから、「死者仏」「成仏」という信仰が先祖崇拝の形をとって、日本列島全域におよんだ。

 (日本人のいじましさ。あっさり「死イコール空」という割り切った考え方に立てなかった。おのれに死への不安があったから、救済を求めた。 言葉を換えれば、輪廻転生ほど人間の身勝手なご利益主義はない)。

 神道、儒教、陰陽道の影響も無視できない。とりわけ、神道の「カミ」と、仏教の「ホトケ」との場合、歴史的背景を念頭に入れておくべきだ。日本の比較を絶した特長は神仏共存、神仏和合である。

 (英単語をカタカナにして取り入れる現代人を彷彿とさせる民族的特質か?「神も仏もあるものか」とか「神も仏もない世の中になった」などという言葉を吐くのは日本人だけだろう。まさか、イスラム教徒が「アッラーもイエスもあるものか」とは口が裂けてもいわないだろう)。

 仏陀が口にした「遺骨にかかずらわうな」は心に響く言葉である。死者は形が滅したもの、即ち「空」である。あの世も、浄土もありはしない。そういう事実の裏側で、泣きはらした顔で葬儀を行い、骨を焼き、遺骨を拾い、墓に収め、掌を合わせる。この行為は死者に対してのものではない。あくまで、生き残った側が親族や知己の死を納得するまでの感傷でしかない。生き残った者のエゴである。自然から生まれたものはすべて自然に戻るのが常道というものではないか。一般的に、人が死んで、半世紀、長くても一世紀もすれば、ほとんどの墓は無縁墓となる。

 方丈記の鴨長明は「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」といい、親鸞は「自分の死後、遺体は河に流して魚の餌にせよ」といっている。この感覚は純日本的などと思っていたが、そうでもないらしいことに私は驚く。

 こんな狭い国で墓をつくっていったら、いずれ国土は墓だらけになってしまう。


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