なぜ対馬は円く描かれたのか/黒田智著

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nazetsushimaha

「なぜ対馬は円くえがかれたのか」 黒田智(1970年生/日本中世文化史研究者)著
副題:国境と聖域の日本史
帯広告:辺境の島から読む新たな日本史/日本と朝鮮双方で育まれた聖域=アジールの島
2009年10月25日 朝日新聞出版より単行本として初版 ¥1200+税

 本書は学術書であり、対馬という離島が歴史的に背負ってきたものを、多くの文献、資料を吟味しつつ、細大漏らさず救い取っている。

 *3世紀の対馬は漁業と交易で生計を立てる島であり、1000余戸の住人が暮らす島だった。島はもともと地味が痩せ、水田はなく、畑作もふるわぬ土壌だった。

 *663年8月、朝鮮半島の「白村江の戦い」で、百済に救援軍を送った日本は「唐、新羅連合軍」の前に破れたため、対馬は防衛上の最前線としての価値を高めた。

 *14世紀に日本列島を描いた日本地図は仁和寺所蔵のもので、寺院で作成されたもの。「行基式日本図」と呼ばれるものだが、諸国を旅した奈良時代の僧行基が製作したという伝承をもつ。国々が俵状に並べられ列島全体が円みをおびて描かれており、地図という観念からは遠く、その頃、国家による地図製作は停滞していた。

 *鎌倉時代にこの島で精力を強めた宗氏が15世紀半ばに領国支配をかため、守護としての権威を正当化した。それまで、「対馬島」だった表記が、これを機に「対馬国」に変わった。この領国支配と権威は以後幕末まで認知されることとなる。

 (こうした経緯がありながら、モンゴル軍が中国を蹂躙し、元という国を建て、君臨したとき、再三にわたり使節を日本に送り、「頭をさげよ」「挨拶せよ」との指示をことごとく無視したり、追い返したり、殺してしまったりしたわりには、朝廷も幕府も坊主どもを集めて毎日祈祷を行なわせることに終始し、大軍が襲ってくる可能性について、壱岐にも対馬にもなんの情報も送っていなかったという為政者としてのお粗末さ。外交的無能は現政権も引きずっているかに感ずる)。

 *国家的プロジェクトとして地図の製作が本格化したのは16世紀の終わり、豊臣秀吉がアジアやヨーロッパでつくられた世界地図を見たことによる影響。

 *江戸時代、幕府による鎖国令が敷かれると、国境線は各地域で厳密さを増し、なかでも日本の西北国境の緊張は高まって、海域重視の方針のもと、対馬は日本の支配領域として明確に囲いこまれた。以後、幕府は諸藩に命じて地図製作に意を用いるよう指示し、以後ないがしろにしていない。

 *対馬の地図は日本と朝鮮双方が描いている。朝鮮では「朝鮮南部図」や「慶尚道図」に必ずといっていいほど対馬が描かれていて、島全体がまんじゅう型だったり、クロワッサン型だったりした。20世紀に入っても、朝鮮側の地図に絵が書かれた対馬は現実の形を表すものではなかった。ただ、対馬の表記が地図上で以前は「対馬島」だったものが「対馬国」と変わっているだけ。

 一方、17世紀以降、江戸幕府側が描く日本地図に現れる対馬の図は精密であり、島の実情を映すものであった。

 *日露戦争後、島は大陸進出への拠点として要塞化が進められた。また、漁業の中心地として九州各地からも人が集まり、栄えていく。

 *太平洋戦後、魚場としての価値も低下、一時はかなりの漁業関係者が移り住んだものだが、島内の人口は過疎化が進み、公園にも雑草が生い茂る有様となった。

 *対馬は今も山林が88%、耕作地が3.3%という平地に恵まれない土地。

 対馬は地理的に、日本よりも韓国に近い位置にあり、ために朝鮮には亡命者が逃げていく場所といったイメージを対馬に置いていたという。それを「アジール」というらしいが、要するに、どんな犯罪を犯そうとも、いったんそこに入ったら、官憲も手を出せない土地、それがかつては「対馬」だったという見方。つまり、対馬は朝鮮側からは王朝による締め付けから自由になれる憧れの島だったという時代が過去に存在した。

 本書には、赤米、神事、古文書、虫酪(つつ)、儀式などにも多くのページが割かれていて、この分野に限っては専門書という体裁。興味のありどころを抑えた上で読書におよばないと、無駄なことになってしまう可能性がある。

 読みたい人には書店で手にとって内容を点検することをお勧めする。


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