碁盤、碁石、御城碁の棋譜の寄贈

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本因坊

 前回のブログで、3年で2段の免状を棋院から取得したことはすでに触れたが、2段に昇格したとたんに人事異動があり、外国人観光客を誘致する業務部門へ配置転換され、同じ「ゴ」が付く言葉ながら、こんどは「語学」に専心しなければいけない立場に置かれた。

 以来、数十年間、安月給をはたいて入手した碁石にも、碁盤にも、必死に入手した本因坊家の御城碁を中心とする本因坊丈和から連綿と続く棋譜の書にも、手を触れたことはない。

 むしろ、居住環境を変化させることの好きな私は現時点までに30回近い転居を行い、その都度、囲碁の道具や棋譜の書籍を運ぶことに疲れ、加齢とともに、これをどう処理するかに悩むようになった。

 そこで、考えたのが棋院が公認する囲碁サロンへの寄贈だった。

 同じ県内のサロンに電話連絡すると、「寄贈を快く受ける」との返事があり、1週間後には車で取りにきてくれた。

 碁石は宮崎県日向海岸沖で取れた本格的な蛤でつくった白石、黒石は那智の産、昭和39年に当時の金額で3万円超、(当時の私の月給の2倍弱)、碁盤はカナダの赤杉で、これは銀座三越で買ったが値段は記憶にない。

 加えて、これまた昭和40年前後に入手した棋譜が12冊前後、といっても、掲載されている棋譜はすべて江戸時代の本因坊家代々の棋譜で、ほとんどは「御城碁」といわれた、将軍の目前で一門の名誉を賭けて打たれた白眉の棋譜。いわば、将軍の目の前で剣の達人が木刀か真剣で闘うに似た勝負だった。もっとも、当時の碁は何日もかけて時間的な制限なく打たれたから、将軍が常時見ているという状態はあり得ないが、棋譜はすべて和紙であり、中身の和紙も表紙もすべて上質の糸でしっかりと留められ、最近では目にしない古い書籍だった。

 取りに来てくれた囲碁サロンのご夫婦は後日に電話で連絡してき、「子供たちが喜んでくれてますよ」という。「子供たち?」「えぇ、うちのサロンでは、将来プロになることを目指している子がけっこういて、うちで碁盤を囲むのはほとんど子供たちです」との話で、「それならなおさら寄贈した価値があったな」と思い、満足感が胸にあふれた。

 寄贈がすみ、くつろいだ気持ちでいたところへサロンから再び電話が入り、子供らが一番喜んだのは、「本因坊の棋譜」だという話に驚きと嬉しさがこみあげた。なにせ、棋譜とはいえ、江戸時代のもの、算用数字などは使われず、手順はすべて漢用数字なのだ。子供らはそれをものともせずに、江戸期に打たれた棋譜をまえに、その古さを楽しみながら、石を碁盤に手順通りに置きながら、学ぶこともあったのだろうと察した。

 一度、サロンの経営者からの誘いもあり、サロンを訪れてみると、碁盤を囲んでいるのは聞いていた通り、子供ばかり、ボードで解説しているのは棋院から派遣された若手のプロ。 そこにいた一人の子供が「おじさん、一局、打ってください」との申し入れ。「君は何級なの?」と訊くと、「2段です」という。「それじゃ、同じ2段といったって、何十年も石にさわったことのない私では、対の勝負にはならないだろう。よし、私が2子置くから、君が白をもって、それで打とう」

 久しぶりの囲碁であるばかりか、相手の子供の石を打つ速度が並みではない。つい、それにつられ、勘と、思いつきで、打ち進むうち、互いの地所の広さからいって、「勝ったな」と内心思ったところで、当方の地所のなかに、小生意気にも白石をひょいと置いてきた。このまま終局したら負けであることをさすがに読みきっていたとみえる。慌てて応接した私は相手の早打ちに乗せられ、敗着を打ってしまい、死を必然としていたはずの白石が私の黒石と「セキ」という関係になり、私の石が殺されたわけではなかったが、双方の地合いのバランスが崩れ、明らかな差ができ、その時点で、「負けました」とあっさり兜を脱いだ。終局まで、ものの15分も経っていない。

 負けはしたが、もし今でもカニやアンモナイトの化石を持っていたら、その子に勝利へのプレゼントとして与えることができたろうにと、そのことが残念だった。

 (上の写真は本因坊・秀策)


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