バリ島駐在記「インドネシアの化石」

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ピテカントロプス7号化石道具

 前ブログ「通貨ルピアの暴落」の続編。

 現地通貨が暴落していたころ、私はジャワ島の「ボルブドゥール遺跡」の名で知られたジョグジャカルタに飛び、そこで現地のオペレーターのボスと合流、そのまま彼の車で「ブンガワン・ソロ」の歌で知られるソロに直行、骨董店の並ぶ店々を回り、それぞれの店主と立ち話をし、からかいつつ、化石のプライスの平均的な、というより常識的な販売価格を再確認した。

 むろん、デンパサールでも、化石を売る店はあり、そこにも頻繁に通って、化石についての知識にはある程度の自信をもっていた。いうまでもないが、観光の島、バリが物価は最も高い。

 ソロを発ち、サンギランという村、「ジャワ原人の出土した村の近く」へ足を向けた。日本人観光客がここまで来たという話はなく、ほんのときどきヨーロッパ人観光客が、といってもほとんど好事家といっていいレベルの人間がやってくるだけだとはジョグジャカルタのオペレーターからも聞いている。

 「ごらんなさいよ。砂山があちこちにあるでしょ? あれは村の連中が化石を探して、掘り起こした跡なんです。雨が降ると、ときに山が崩れて危険なんですけどね」。

 オペレーターのボスが示す通り、周辺は再三にわたって掘り起こした様子が視界に拡がり、崩れ落ちた形跡もあり、形の定まらない砂山が散在している。過日、地震と津波が二度連続して起こった南の地域からは遠くないから、その地震の余波を受けて、いまごろは山が崩壊しているかも知れない。

 サンギランには規模の小さな博物館があり、内部で目を惹いたのはマンモスの3メートルもある牙だけで、ほかにこれといって面白い展示物には出遭えなかった。

 むろん、現在どうなっているのかは知らないが、発展途上国の博物館に共通するのは、旧宗主国だった西欧の国(インドネシアならオランダ、マレー半島ならタイを覗いてフランス)に、学問的あるいは文化的な価値の高いものほど本国に持っていかれているから、展示物はだいたいがお粗末というしかない。そのことはインドネシアの首都、ジャカルタも、バリの州都デンパサールも例外ではない。

 日本の上野にある国立博物館にしたって、イギリスの大英博物館、アメリカのボストン博物館、フランスのルーブル博物館、台北の故宮博物館などと比べれば、博物館の名にすら値しないという印象がある。

 要するに、立派な展示物で溢れている博物館というものは、植民地を多く持っていて、植民地を中心にその土地周辺の文化財を強奪してきたか、あるいは中国のようにみずからの手で文化財を守ることができたか、いずれかを物語っている。(故宮博物館の展示物の大方は中国本土から蒋介石が船で運んでしまったものではあるし、イギリス人やスウェーデンのヘディン(「さまよえる湖」の著者)や日本人が持っていったものもある。

 日本の江戸期の品物などは、日本の博物館で見るより、上記した西欧の博物館に陳列されている品物のほうが質、量ともに上野博物館を上回り、見ているうちに段々に腹が立ってくる。とはいうものの、先進国に持っていかれ保護されたおかげで、品質が損なわれず、展示物として見られるというのも事実。

 中国にしても敦煌(とんこう)などの壁画がイギリス人に削られて持っていかれた歴史があるが、もしそうした歴史がなければ、土地の住人が盗掘していた可能性もある。

 大英博物館にはエジプトの遺産が大量に展示されているが、それも一種の保護策だと思えば納得がいく。

 イラク戦争時、イラク人がイラクの博物館から大量の展示物を略奪、逃走しているし、石壁に掘られた大仏が戦車によって砲撃破壊された例もある。

 日本の場合は、ペリーによる恫喝的開国以降、アメリカ人やイギリス人が骨董を扱う商人から買っていったわけで、強奪したわけではないが、かれらから見たら相当に安価な買い物だったに違いない。戦後だって、1ドルが360円の時代、貧しかったわが国の商人にとって、アメリカ人は格好の顧客、一張り百万円もする古い屏風をあっさり買う客がけっこういたものだ。

 さて、サンギランに話を戻す。早々に博物館の外に出ると、右側の空き地に土産物屋が軒を並べて、というと格好よく思えるが、実際は屋根のない全くの青空市場、全体がL字型になっているが、一店舗が長さ2メートル、奥行き1メートルほどの板を高さ80センチほどのところに並べ、店舗がそれぞれくっつきあっている。どの板の上にも同じような品物が置かれ、当然ながら店舗ごとにオーナーが違うという形で、トータルで25ほどの店舗があった。その風景は、戦後のブラックマーケットを想起させもした。

 青空市場とはいったが、板の上には、化石を主とし、ほかに動物の牙、爪、骨、歯、貝といった品物があるだけで、どの店にも食べ物の類はない。店によって販売品の特徴を変えるといったアイディアも窺われず、それぞれが山を崩し、掘り返して見つけた化石を主体に置いているだけという印象。互いにガヤガヤとしゃべって、客の来ない暇をもてあましている様子。ジャカルタが火の海になったあと、スハルトがみずから大統領の地位を降りたばかりの時期だから、地域にもよるが動乱状態はまだ続いており、わずかに来訪するというヨーロッパ人の姿もまるでない。

 ところが、私の姿を認めるや、「Tuan, tuan!」と呼びかける声があたりに響き、店主たちが一斉に、私を手招きする。「Tuan」(トゥアン)とは、日本語でいえば「だんな」という意味である。

 私はポケットに入っているルピアの札束に手をやりながら、店に近寄っていった。私の目に多くの化石が見え、思わず、笑みがこぼれる。私は子供がポケモンのカードに熱中するように、化石が大好きで、悠久の時間(4千万年から1億年を超える)を大地のなかで眠ってきたというロマンを想っては、そのロマンに酔い、酔っている自分に痺れるという、まるで「ガキんちょ」だった。以前(2006年8月)にブログに書評した「男(オス)女(メス)の怪」を書いた養老孟司さんが昆虫に夢中なのと大差ない。ことに、蟹という生物には、幼少のころから、ことさらの興味を惹かれていて、いまでもカニのロボットが欲しいと思っている。

 「Oran Jepang tidak datang ke sini, ya?」(「ここには日本人は来ないだろ?)

 私が一店舗を構える、キリギリスのように痩せ細った、三十くらいの男に、そう現地の言葉で問うと、

 「観光客はヨーロッパ人だけで、日本人の観光客は見たことないよ」

 と応ずる。

 「そのヨーロッパ人も、最近じゃ、さっぱり来ない」

 「えぇ、ま、その通りで」

 キリギリスは素直にそう言った。

 「じゃ、日本人を見たのは、おれが初めて?」

 「いや、大学の先生、考古学者は見たことがある。」

 その言葉で思い出した。東大の出版物に、「現地に赴くと、現地人が人骨や獣骨をもってきて見せるんだが、それらが、どこの、どういう地層に在ったかを明確に示すことができず、年代を測定するうえで、大変に困った」とあったことだ。

 サンギランは「ジャワ原人が出たところに近く、サンギランからはジャワ原人より古い人骨(上に掲載した写真)も出ていて、学者は「ホモ・エレクトス」の仲間に分類していると聞く。東大の学者はインドネシア政府の請いを受け、現地での発掘や調査に長期にわたり協力している。

 「これ、カニだな」

 小さなカニが二匹、岩石の上にくっついた形で美しい姿を見せ、傷の一片もないことに感心して見入った。

カニ
(この写真のカニは日本の川に生息する沢蟹だが、これとほとんど同じサイズのカニが、ほとんど同じ形で化石となり、二匹が並んで、そこにあった)。

 「カニだけじゃないぜ。エビもあるし、魚もあるし、アンモナイトもある」

 化石に興味を示したことを敏感に感じ取ったキリギリスは、ここを先途(せんど)といった風情でわめきだした。

 カニのことは現地の言葉で「Kupitin」(クピティン)といい、エビは「Udan」(ウダン)というが、化石のことは英語の「Fossil」が変形した「Hosil」を使う。

 余談になるが、インドネシア、マレーシアに共通するマレー語は世界でも最も易しい言語の一つだといわれる。ものの本によれば、マレーを中心とする人々がむかし通商を目的に出来るだけ簡単な言語体系を創ったかららしい。さらに、日本人にとっては、言葉の意味合いに相似のものが多く、心情的に親近感が持てる。たとえば、日本語で「雑魚寝(ざこね)」という言葉があるが、マレー語では「Tidur seperti ikan」と言い、「魚のように寝る」というし、噂のことは「kabar angin」といい、「風の便り」と訳すことができる。大便、小便のことも、日本人が言うように、「大きいの」「小さいの」と言えば理解される。

 カニとエビの、いわゆる味噌の量を比べると、明らかにカニが勝り、エビの味噌は少ない。そこで、インドネシア人は「あいつの頭にゃ脳味噌がすくない」、要するに「あいつはバカだ」というとき、「Kuparanya seperti udan」(あいつの頭はエビのようだ」と、日本人には珍味となっている味噌が脳味噌なのかどうか私は知らないが、そのような言い方をする。「Otaknya kosong」といわれたら、「Otak」が「頭脳」、「Kosong」が英語の「Zero」あるいは「Nothing」の意、「脳のなかは空っぽ」という意味で、「能足りん」とか「能無し」といれれたことになる。

 化石の見つけ方だが、かれらは上の写真にあるような道具を使い、あるときはハンマーまで使って、岩石や岩そのものを叩き割るという手法を採る。サンギランにある石は比較的柔らかく、簡単に真っ二つにすることができるから、化石の有無も容易に判断できる。カニの化石のほとんどは1個の石に1匹が相場だが、このとき私の目を惹いた化石は1個の石にカニが二匹という滅多にない稀なものな例であり、そのうえ、上部にあたる石の部分にもカニを載せている石の下部にも、傷や欠損がなく、上からぴったりはめ込んでしまうことが可能だった。また、その方が、化石を傷つけずに持ち運びができる。私は内心「やった」という思いだった。

 「欲しい」という気持ちが表情に出たか、キリギリスが、

 「これ、安くしとくよ。10万でどう?」と、出た。

 「アホぬかせ。あんた、毎日ここに立ってんだろ? 毎日待っていても、客は来ないってのが実情だろ?いまどき、そんなバカ高い値段で買うやつはいないよ」

 「じゃ、だんなにだけ特別の料金で、5万」

 一気に半値に下げてきた。

 カニ一匹の化石なら、どんなに値切っても、ソロで4万、スラバヤで3・5万、バリなら7万ということは予め調べてある。

 「なにをボケたこといってるの? あんたの家じゃ、かみさんが赤ん坊抱いて待ってるんじゃないか。赤ん坊はミルクが欲しくて泣いているぜ。赤ん坊にミルクをやりたかったら、キャッシュが必要だ。この時期、自分の儲けなんか捨てて、ものを考えろ。だいたい、そんな余裕があるわけない。要するにだな、実態を踏まえ、家庭の事情を考えて、値段を決めろってことだ」

 私はそう言い放ちつつ、1万ルピア札を取りだし、それをキリギリスの目の前で振ってみせ、

 「1万にしとけよ。1万を超えてまで、おれは買わない。いまの時期、ソロに行っても、スラバヤに行っても、安く買えるからな」

 「そりゃ、無理っていうもんだ。いくらなんでも、二匹も入ってる化石を1万なんて」

 傍に立っていたオペレーターのボスも「それじゃ、あんまり可哀想だよ」といった顔をしているが、口には出さない。私と彼らとの取引、交渉に口出し無用とは私が予めボスに指示してある。

 「じゃ、要らないよ。カニなんざ、どこにでもある」

 私はそう言うなり、ルピア札をポケットに戻し、隣の店に移動した。とはいえ、2メートルの距離である。すると、

 「だんな、だんな、ねぇ、だんな」

 キリギリスがしつこくわめきながら、身体を乗り出している。

 「どうした? 1万にするのか?」

 「いやぁ、それでさ、だんな、2万にしとくから、なんとか2万で勘弁してくれないか」

 私は咄嗟に、

 「じゃ、中をとって、1万5千だ」

 と言うなり、1万5千のルピア札を板の上に置き、二匹のカニの入った石を持ち上げ、

 「きちんと新聞紙で包んで、ビニールの袋に入れてくれ」

 とキリギリスの顔を見た。キリギリスは受けとった1万5千ルピア札をぎゅっと握りしめながら、

 「ひゃー、1万5千ですか。だんな、あと5千、お願いだから、あと5千、お願いします」

 ほとんど泣いている。

 しばらく考えた末、「しょうがねぇな。じゃ、あと5千やるか」と言いつつ、5千ルピア札をキリギリスの手に握らせると、涙を流さんばかりにして喜んだ。

 私の胸には、キリギリスを相手にやったという達成感よりも、憐憫の情も湧いてきていた。

 バリでなら、二匹も入ったカニの化石なら15万から20万はする。そういう実態を知悉していたということもあるが、「成功に感動したシーン」を書くつもりが、結局は「いじめのシーン」になってしまった。

 2万ルピアといっても、諸物価高騰の時期、円に直せば200円以下の買い物、そのうえ物価高騰を受けて多くの母親は栄養不足に陥り、乳が出ず、幼児への授乳は市販されているミルクに頼らざるを得なかったが、バリでさえミルクの値段が5万ルピアはするのだから、いくら田舎のサンギランでも2万ルピアでミルクが買えるわけのないことも判っていた。

 後日談になるが、2000年に帰国したあと、私は好きで集めた化石群を、だいたいは日本の子供らにやってしまった。なかには、「理科の先生が羨ましがってさ、先生にも一つ分けてくれないかって頼んでよといってました」と伝えてきた子もいた。

 サンギランに日本人観光客はまったくないと上記したが、最近ではバックパッカーと呼ばれる若者がけっこう出入りするようになったとはジョグジャカルタのボスから聞いている。とはいえ、ボルブドール遺跡のあるジョグジャカルタまで行く観光客ですら、バリ島を訪れる人のおよそ1割だから、サンギランにまで行こうという観光客はいず、当然ながら現在も一般的な観光ルートには入っていない。

 実は、この話には、まだ尾ひれがつくのだが、それは別の機会に譲ることにする。


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