シルクロード体験記「ウルムチ&トルファンへの旅」

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ウルムチ空港
 (ウルムチの空港)

 

 日中国交が回復して直後(1978年だったと記憶する)に、団体を同伴、上海、北京、蘇州などを回ったのが中国訪問の一回目だった。どの街に行っても、人々はすべて青い人民服を着用し、自転車に乗って、文字通り雲霞の如くに現れ、外国人が珍しいのか、取り巻かれ、動物園の猿になった気分だった。

 ただ、国交が回復する時がやがてやって来るだろうとの想定のもと、学生時代は第二外国語に中国語を選択し、勉強したことはしたのだが、いざその時がやって来たときにはすでに中国語に関する知識は忘却の彼方、なんの役にも立たなかったのは残念至極というしかなかった。

 1回目の中国訪問の数か月後、NHKで石坂浩二がナレーションをして紹介したシルクロードをNHKテレビで見、夕日を背景に砂漠を歩くラクダの絵に感動、「ここだ、ここに行ってみたい」と思い、1980年になってシルクロードツアーを某新聞社と共同企画したところ、募集した人員はすぐに集まった。現在のように宿泊設備が整ってはいない時期だから、募集人員の枠も25人がやっという状態。

 ウルムチまで飛行機で行き、そこからなんとトヨタのボロ車で、トルファンに向かった。「トヨタなら、途中でエンコしないからだ」とはガイドの説明だった。

 タクラマカン砂漠に入ってすぐ、私たちが見たのは、むかし防人(さきもり)として西に送られた兵士が最後に休憩したり宿泊したりするための「陽関」だったが、目前には崩れ落ちた泥が盛り上がっているだけの姿があって、予測を超えた光景に唖然たる表情を見せたのは私だけではなかった。

陽関
 (陽関遺跡)

 夜来の長雨は軽塵(けいじん)を潤し、客舎清々、柳色新たなり。

 さらに尽くせ一杯の酒、西の方(かた)、陽関を出ずれば、故人(知己の意)なからん。

 高校時代に覚えた漢文の一節が思わず口から漏れた。(間違いがあるかも知れないが、友人が防人として西方に旅立つのを陽関まで送りに来たときの詩であると教わった)

 途中、西遊記の孫悟空が現れたという火焔山を見、砂で煙る道なき道を走ったが、私たちは全員サングラスをかけ、砂から目を守った。聞けば、現地の人はサングラスなどはないから、丸く切ったブリキに小さな穴を沢山あけて、針金を使って眼鏡をつくり、砂を防ぐのだという。

火焔山
 (火焔山)

ゴビ砂漠
 (砂煙のあがるゴビ砂漠)

 トルファンに到着して驚いたのは、一軒だけ存在したホテル、というより「イン」といった方が正しいのかも知れないが、ガイドは「招待所」と表現した。床がなく、地面が剥き出しで、鉄のパイプでつくった粗末なベッドがあり、凹凸の激しい洗面器が一つ置かれていたことだ。

 部屋のなかにバスルームはおろかシャワー室もなく、小学校に昔あった水道が5,6個、招待所の外にあり、私たち男性はそこで上半身裸になって体を洗った、というより拭いた。また、トイレは公衆便所で、戸の鍵は壊されたまま修繕されていず、女性は女性同士で男性は男性同士で戸を背で抑えてことをすませた。中国人は一般に外で穴を掘ってコトをなすし、トイレがあっても前を遮るドアはなく、そういうところでも彼らは平気で排泄すると聞いた。

 ただ、招待所の外には葡萄棚があり、夕方、そこで現地の少数民族(ウィグル族)の女の子らが踊りを披露してくれた。少数民族の女性らは装飾品に興味があるらしく、同行の女性客のブレスレットやイヤリングなどをしげしげと見ていた姿が印象的だった。また、当時は、女性でも化粧をするのは、中国では俳優や雑技団の女性以外にはなく、その意味で、彼女らの目には日本婦人が眩しく映ったのかも知れない。

 少数民族が多く住んでいるウィグル地区では、彼らが住居とするパオを覗かせてくれた。

 食事は羊の肉をシシカバブースタイルにして、お爺さんが焼いてくれたが、辛子その他の調味料を適度に振りかけてあって、羊の肉独特の臭気はなかった。

 翌日は、交昌故城、黄河故城(伝説によれば、西遊記の三蔵法師もここを訪れたとのことだった)の見物だったが、ガイド役の女性が、お城はまだ専門家が考古学的な調査をしていないので、遺跡がたくさん残されているが、採取しないようお願いしますと言った。ところが、25人の団員はガイドの後につかず、それぞれバラバラに散ってしまい、どこで何をしているのか判らないという状況を呈した。おそらく、土器あるいは鉄器の欠片でも拾っていたのではないかと私は想像したが、私もそのうちの一人だった。

高昌故城
 (交昌故城)

 「往きはよいよい帰りは怖い」というが、帰途も北京まで飛行機のはずが急遽、列車の旅となった。

 当時の中国国際旅行社は旅程の希望は聞くが、その通りになるかどうかは常に前日に明らかにされるという方式だった。ということは、北京にせよ、上海にせよ、到着してから、ガイドから今夜の泊まりは何々ホテルですと告げられることになる。

 列車そのものは一般客(土地の人)が乗る車両と、観光客が乗る車両とは分けられていて、私たちが利用できた車両はキャビンスタイルになっており、寝台車としても使うことができ、快適ではあったが、窓の外に見える景色にはまるで変化がなく、退屈を同室者とのおしゃべりでまぎらわすしかなかった。

 一般客が乗車を許されている車両には席の取れない人が床にすわりこみ、半端な込み方ではなかった。定期的に担当の女子がお茶をもって予め与えられた茶碗に茶を注いでくれるのだが、茶の葉がたくさん入っていて、それが口の中に残るのが嫌だったが、ガイドはペッと吐いてしまえばいいと、目の前で実演してくれた。

 ただ、窓の外に延々と続いていたのが万里の長城の崩れた跡で、下の写真にあるような形をとどめてはいなかった。

万里の長城
 (万里の長城)

 ところが、途中で、ガイドが「今の時期は雨季なので、途中下車して平霊寺を見ることができるが、行きますか?」と問うた。反対の声はなく、私たちが途中下車した駅から車に乗って案内されたところは船着場だった。どうやら、昔は平坦な土地だったところに川があり、そこを掘ってダムにしたようだった。乾季の時期では水がなく、船を走らせることができぬこと、平霊寺は船でしか行けないことを、このとき知った。

 平霊寺は敦煌の莫高窟(ばっこうくつ)に似たものであるが、場所が高いところに存在するため、竹や木で組んだ梯子段を上がらざるを得ず、危険を配慮して、昇ることを諦めた団員もいたが、私は団員の中で最も高齢だった女性を背後からかばいながら、最上段まで昇り、全体を拝見させてもらった。

 平霊寺を訪れたことのある人は現在に至るも、僅かな数であろうと思っている。

 最近見たテレビ映像では、ウィグル地区は中国でも有数の油田地帯があり、石油を大量に使用するようになった現在、主要な地域として政府の管轄も厳しく、人口が急増しているとのことだが、ウィグル地区の少数民族よりも漢族の人口の方が多くなっているとのことだった。石油の噴出がウィグル族の生活向上に繋がることは決してないだろう。


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