世界史・パート14「イスラム圏」

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イスラム寺院

「世界史」パート14

  「イスラム圏」

 イスラムはアラビア半島のマホメットがユダヤ教から派生する形でイスラム教を起こし、7世紀以降、イスラム教徒はすべてアラブ人と呼ばれ、かれらもアラブ人であることを自認している。言語が「アラビア語」で統一されているという事実からも同じ地盤に立つ民族との意識も醸成されているだろう。

 アラブ的文化はシリア、ヨルダン、エジプト南部、スーダンまで侵食し、マホメット没後、やがてスンニ派とシーア派に分裂、対抗する歴史に移行する。

 スンニ派のムアーウィギは四代目カリフ(王)で、マホメットの従弟であったアリー率いるシーア派を排除、ウマイア朝を立て、現シリアの首都ダマスカスに都を置いた。

 ウマイア朝もまた東西に征服地を拡げ、ヨーロッパに侵入。732年、フランスへの侵略を試みたが、トゥール・ポワイエの戦いで破れ、これによりイスラム勢の欧州侵入はイベリア半島(スペイン、ポルトガル)までで食い止められた。イスラム化を経験したスペイン、ポルトガルの文化には、フランス、ドイツ、イギリス、デンマーク、ベルギーにはない異質性が目立つ。

 以降も、シーア、スンニの対立抗争が続き、覇者の交代がめまぐるしく続く。

 第一次大戦時点で、スンニ派の勢力圏の主要部分はオスマントルコの支配下に入り、シーア派はイランに集中。 トルコが大戦に破れた結果、トルコ治下の民族は本来の方針に基づいて独立。その折りの国境の単純な線引きはイギリス、フランスの手に委ねられたが、その手法が以後幾つもの紛争の種を残した。大戦後、イラク、クエート、ヨルダンはイギリスの委任統治領に置かれたが、ユダヤ人のシオニズム(先祖の地に帰還すること)をバックアップしていたイギリスはパレスチナ人が住んでいた地域をイスラエルとし、ユダヤ人の移植を公認、以降、パレスチナとイスラエルとのあいだに妥協を許さぬ確執が継続する。

 ただ、イギリスが独立を許す前に、各地に石油の試掘を行い、試掘が失敗に帰した国から順に独立を許可したなかで、イギリス最大の失敗がアラビア半島だった。イギリスはアラビアには石油は出ないとの判断で独立を容認したが、その後アメリカの地下資源発掘業者が試掘を重ねた結果、膨大な石油資源が眠っていることに覚醒した。イギリスは歯噛みして悔しがったであろう。

 ユダヤ人は前世紀からイスラエルと、その周辺に住んでいたが、アッシリア王朝の侵略を受けて滅び、ユダヤ王国は新バビロニア王国に併呑された。バビロニア滅亡後は再びパレスチナへの帰還が許されたものの、ローマによる侵略、迫害でペルシャ、アレクサンドリアなどへ離散、以後、迫害、離散が繰り返されるなかでシオニズム思想が生まれた。

 ユダヤ人は古語であるヘブライ語をイスラエルの正式な国語とし、蘇らせたが、周辺イスラム圏国家との軋轢、抗争は当分のあいだ止みそうにない。


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