世界史・パート7「ロシア」

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シベリア

 ロシア最古の王朝はキエフ公国、現ウクライナを中心にベラルーシ、モスクワを含む地域に勃興、支配。980年、東ローマ(ビザンツ)よりギリシャ正教を受け容れる。

 キエフ公国は以降、四つの公国に分裂、衰退。13世紀には、モンゴル軍によって一蹴されたが、1271年、モスクワ公国を創設、14世紀には大公国となって発展、モンゴル人の支配下にあったキプチャク・ハンを15世紀末に追い払った。

 1547年、イヴァン4世はモスクワ帝国と改め、ツアーの称号を用いた「雷帝」の名で知られる人物。 ただし、16世紀に至って、イヴァンの子孫が断絶、大混乱の末に、ロマノフ王朝の成立をみる。

 ロシアの拡大は1619年以降、シベリア東方地域を無人の野を行くがごとく、領土を拡大し、ついにはベーリング海峡を渡り、アラスカにまで達した。また、船を使っての猟(毛皮を求めての)を継続するため、飲料水、燃料、食料などが必要だったため、再三日本を訪れ、希望を伝えたが、日本はこれを受け容れなかった。ロシア人はアラスカを得たあとはサンフランシスコまで船足を延ばしそれらを入手した。

 東方にロシア軍に対抗する勢力が皆無だったこと、シベリア平原にテン(イタチ科)が多棲し、その毛皮が西欧貴婦人に愛用されていたため、格好の輸出品となったことに着眼したといわれる。

 ロマノフ王朝は中央集権化を進め、17世紀にはピョートル大帝1世がトルコ、スウェーデンとの戦争で領土を拡大。

 ピュートル大帝以後、囚人を酷使、サンクトベルグの湿地帯の埋め立てから、シベリアの開発を強制する手法が延々と継続、大戦後はスターリンによって、敗戦国の兵士のみならず一般市民すら巻き添えを食って、酷寒の地で強制労働に従事させられ、亡くなった人も少なくない。

 この国には長期にわたり「人権」などというものはなく、「人命尊重」、「人命重視」などという姿勢はわずかにもないことを知っていたほうがいい。時の政権に反発する意見を吐けば、命を狙われるのは、ウクライナの大統領がそうだったし、最近ではイギリスでKGBのスパイにプーチンを誹謗したかどであの世に送られた。そのプーチンですら、KGBの出身であり、見るからに酷薄な面構え。

 人間同士の触れ合いにも、外交面でも、日本とはあまりの隔たりに呆然とするばかり。

 15世紀には西欧の隣に鎮座する小国だったロシアは17世紀には西欧全域に相当する領土拡張に成功、1858年にはアジアのアムール(黒竜江)以北をロシア領とし、属国の人々は「民族の牢獄」と呼んだ。1860年、北京条約で、中国領土だったウラジオストックも強奪。(中国も尖閣諸島を云々するのなら、ウラジオストックの返却をロシアに迫ればいい)。

 世界地理の上で、最後まで不明だったのはサハリンが大陸続きかどうかという点だったが、これを明らかにしたのが日本人の間宮林蔵。彼は氷で覆われた時期にアムール川沿いに奥地にまで達し、踏査し、サハリンが地続きではなく一つの島であることを発表したため、いまだにこの海峡には「間宮海峡」との名がつけられている。その事実は彼の業績が偉業であったことを示唆するものだ。

  ソ連邦が解体、崩壊する前まで、ソ連邦には104の民族が包含されていた。石油やパイプラインと関係してしまうチェチェンのような国は独立を許されず、ウクライナのように燃料をロシアに依存する国は独立を許可されたが、ロシアらしい狡猾さが外交の骨子といえるだろう。どのアングルから見ても、一筋縄ではいかない図太さと、抜きがたい大国意識、専制への渇望を潜在的にもっている人種という印象が抜きがたい。

 自由市場を求め、体裁だけは西欧並みに変貌しつつあるが、独裁制が成立しやすい面、裏切り者への容赦のない報復欲は、元KGBのプーチンにも遺伝子となって連鎖している。

 基本的に、ロシアという国、ロシアという国を治めるトップは根性が汚い。

 太平洋戦争時、日本との和平条約を一方的に破棄し、満州へ進軍、日本兵の多くをツンドラにある収容所に送り、常識を超える長期にわたってこき使った。ツンドラの地に散った兵士も少なくない。また、日本がすでにポツダム宣言を受諾した後、サハリンから北海道に帰還する日本人市民を満載した輸送船を、それと認識しながら、潜水艦によって沈没させたのはロシアであり、北方四島ばかりか、千島列島まで強奪して、いまだに返そうとしない根性。

 (写真上は雪原のシベリアを行く列車)


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