水中世界への挑戦「ケース10:がらくたで埋まる古井戸に物証を追って三十メートル」(その2)

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 語り手:沖縄県那覇市在/T氏

がらくたで埋まる古井戸に物証を追って三十メートル(その2)

 「ロープを三回引いたら、ゆっくり揚げてくれ」

 私は命綱をウェットスーツを着用した腰に巻いたうえで、木下にそう頼むと、井戸の淵をまたいで水のなかに入った。とたんに、悪臭が鼻をついたが、足が自転車のようなものに触れ、まず「潜降すること自体がむずかしい」ことに気づいた。

 いつ掘ったのかさえ不明という古井戸である。透視度、透明度ともに最悪の状態なのは覚悟していたが、ライトを点灯しても自分の手が漸く見える程度。これまでも視界の奪われた池や沼にも入っているし、海ではネオプレーンをマスクに貼って意図的に盲目潜水を行なってきたが、それらの経験からすら予測のつかない、極端に閉塞感の強い環境だった。

 自転車のようなものを避けて潜降しようとすると、腕にも肩にも針金ともつかず木の枝ともつかない堅いものが触れ、それらをいちいち払いのけては、体の入る隙間をつくり、全身を水のなかに入れるまでだけで五分かかった。狭苦しい水中空間を時間をかけつつ下へ下へと進みながら、手に触れるものの形状をいちいち確かめる。

 井戸のなかは堆積物が多量に存在し、あるものは固形であり、あるものはビニールや紙のようなものである。それらが多少の隙間をつくりながら重なりあっている。付近の住民が井戸をゴミ棄て場所として使ってきたし、つい最近もそういう使われ方がされていることが肌に感じられた。

 私はほとんど数センチずつ深度を下げながら目的のものを探したが、依頼された形のものが手に触れることはなかった。もちろん、深度を下げながら、体を三百六十度回転させていたわけではなかったから、見逃しもあったかも知れない。

 十メートルほど潜ったとき、たはして水面まで戻れるかという不安が胸に芽生えた。これまでずいぶん厳しい潜水を経験してきたが、長いあいだ使われていない腐臭に満ちた古井戸で、しかもこれだけ雑多な堆積物に邪魔されながらたった一本の庖丁を探すというのは初めてのことだ。

 浮上すれば、堆積しているものが上への移動を阻む可能性も否定できない。こうした心理がエアの消費を経験則以上に促しているだろうことも頭に入れておかねばならないと思いもした。

 そのとき、指先に痛みが走った。「問題の物証か?」と一瞬思ったのは、触れたものが尖ったものだったからだ。刑事に依頼されたものだったら喜んでもらえるなと思いつつ、手探りしてみたが、針金そのものだった。私はさらに水深を下げ、井戸のなかを降下した、内部は同じような状況が続いている。

 と、手にぐにゃとするものがあり、両手でまさぐると、猫か仔犬の死体であった。人間の死体ではなかったものの、私にはいやなものに触れたという意識が強くあり、そういう心理が怯えを誘った。

 その場に体を止め、しばらく思案したが、「自衛隊の特殊潜水隊の隊員がこんなところでびびっていてどうする? 次に潜る木下が物証を探してしまったら、立場ないぞ」という声が私の背中を押す。結局、もう少しはっきりするまで仕事を続けることにした。

 プロ意識を奮い立たせ、自分を鼓舞し、内部で触れるものを吟味しつつ水深を二十五メートルまで落としてみたが、底に着く気配はなく、井戸のなかは依然として色々な物体で埋められ、私の動きを遮った。

 「こうなったら」と、手に触れるものを多少乱暴に左右に掻き分け、さらに潜降し、三十メートルまで達したが、刃物らしいものはなく、底にも着かなかった。井戸なんて二十メートルも潜れば底だろうと考えていたが、とんでもなかった。潜水するまえの安易な想像や早合点は禁物なのだと、このときあらためて思った。

 エアはまだ十分にあるはずだが、遮蔽物のある狭い水中である。この水の空間のありようから考えて、浮上したいときにすいすいと浮上するなどは不可能であり、私はしばらく考えた末、このとき浮上を決意した。

 予測したとおり、上への移動も下への移動時と同じようにガラクタに邪魔され、私はそれらをよけ、掻き分けて進む以外に手がなかった。慌てないことを己に課し、引き上げの合図を木下におくことは意図的に避けた。雑多なものがやたらに詰まっている井戸のなかで、たとえゆっくり引いてくれたにせよ、状況次第でしばらくは同じ水深に留まらざるを得ない場合があり得るだろうという読みだった。

 手間どりながら、ようようの思いで水面に浮きあがると、円形の淵に三人が顔を並べて待っていた。

「どうだった?」

 上司がにこりともせず、労をいたわるでもなく、問いかけた。

「刃物はみつかりませんでした」

 私は井戸の内部の状況を誇張せず、ありのままに説明した。三十メートルまで潜ったが、井戸の底まで行き着けなかった事実も正直に告げた。

「もう、潜らんほうがいいようだな」

 上司は私の報告を聞くと、こういった仕事をよく知っている人だけに、私からの報告に嘘や誇張がなく、きわめてリスクの高い潜水になることを的確に察知し、私の体からたちこめる臭気に鼻をおさえていた。

 私が井戸の外に出ると、刑事も鼻をおさえ、顔をしかめて、

「なんとか、もういちど潜ってくれませんかね。だいじな物証なんですよ」

 と食いさがる。私と木下は黙って上司の次の言葉を待った。我々は上司が「潜れ」という限り、嫌も応もなく潜水を継続するしかない。 

 「状況は今こいつが報告したとおりです。危険が多すぎて、うちではこれ以上のことは無理ですな。大事な隊員を殺してしまうわけにはいかんですから」

 上司の口からはじめて人間らしい言葉が吐かれた。いや、そう思ったのは私と木下だけで、刑事には木で鼻をくくったような発言に聞こえたであろう。

「おい、もういい、用意せんでいい」

 上司が準備を始めた木下に向かってそう言うと、そばから、

「光の強力なサーチライトもって入れば、いいんじゃないのかね。なかがよく見えるだろう」

 と、刑事はあきらめきれない様子で上司の顔をはすかいに見る。経験のない刑事にはその古い井戸の状態が想像を超えていたようで、二人の若い隊員が遠いところをわざわざ来ているのに、一人しかまだ潜ってないじゃないかとも思ったらしい。

「どうだ?」という目を上司が私に向けるので、

「耐圧のサーチライトをもって潜っても、ハーレーションを起こして、目がくらむだけです。どんなに明るいものをもって入っても、濁っている水の状態は変えられませんから、見えないものはやっぱり見えないんですよ」

「そういうことです。透明度の悪いところをどんなに明るくしたって、見通しがよくなるってことはないんです」

 上司は刑事にそうダメ押しをし、続いて、

「さ、おまえ、臭い体をはやいところ洗ってこいや。刑事さん、体を洗うところ、このあたりにあるんでしょ?」

 刑事が案内してくれた別の人家の屋外にある水道を使い、器材はもとより、体も念入りに洗った。

 「もし、どうしても、その物証というのが欲しければ、あの井戸の水を消防署に頼んで全部吸い出してしまい、ロープラダー(ロープはしご)を使って内部のガラクタを一件ずつチェックしながら、井戸の底まで達することができれば、被疑者の言っていることが正しければ、出てくる可能性はありますね」

 私はそこまで言って、さらに、

「われわれ潜水する人間は中がいくら汚くても、タンクからエアを吸い、顔はマスクで覆っているからいいですけど、あの井戸にひょっとしてメタンガスなどが出るとしたら、水を出したあと、それだけの用意をして仕事をしないと大変なことになる可能性はありますよ。消防署の人なら、そのあたり、よくわかっているでしょうが」

「ま、そういうことだな」

 刑事は苦虫を噛みつぶした顔をながら、状況把握ができたようだった。

 横須賀への帰途、上司は、

「くさいな、おまえ、ちゃんと洗ったのか、器材やウエットスーツも?」

「はい、しっかり洗いはしたんですが」

「ったく、もう・・・、おい、窓を全開にしろ」

 帰途、運転を代わった木下は下を向き、懸命に笑いをこらえているふうだった。


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