水中世界への挑戦「ケース6:貨物船の外国人船長からアンカーの引き上げを頼まれたが」 

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 語り手:静岡県静岡市在K氏

貨物船の外国人船長からアンカーの引き上げを頼まれたが

 「外国の貨物船を、防波堤沖の、いつもの三区にアンカーを打たせて内部をチェックしたんだが、そのあと、アンカーが揚がらなくなってしまったらしい」

 電話をかけてきたのは清水港の税関事務所であった。

「船長からなんとかしてくれないかって言ってきて、それであんたのところに頼もうと思ってな。潜って、下を調べてやってくれないか。なんかが引っかかっているんじゃないかって思うんだが」

 事実とすれば、責任者としての船長は困っているに違いない。

「水深はどのくらいですか」

「四十から五十メートルくらいって、船長は言ってるんだが」

「それだったら、たいしたことはない。すぐ支度して現場に行きますよ」

「埠頭にボートを用意して待ってるから」

 話を聞いたかぎり、たいした仕事でないことは見えている。私は器材と水中ライトを車に積み込むと、即座に埠頭に向かった。

 防波堤の「三区」というのは外国船が入港するときに停船させ、そこで税管理が立ち入り検査をする海域で、貨物船であれ客船であれ、それが外国籍の船であれば必ずそうするしきたりになっている。

 埠頭に着くと、税関の職員が約束どおりボートに乗って待っていてくれた。

 現場に達すると、三万トンを超える貨物船があり、バウ(船首)の穴から金属製の太い鎖が海に張られている。連絡が入っていたらしく、甲板からは船長がこちらを見守っていた。

 「アンカーを引っ掛けているのは魚網かも知れない」という憶測があったので、鋭利なナイフを用意していたが、それと水中で力を発揮するハローゲンライトを手に船べりを蹴った。アンカーの鎖に沿って潜降していくと、曇天下の海中は予測に違わず透明度は七から八メートルほどという劣悪な環境。

 水深を落としていくと、ライトを持っていても、あたりはどんどん暗くなる。水深三十五メートルに達したあたりでは夜間潜水とまったく同じ状況となり、私の予測に狂いが生じたことを意識した。五十メートルの水深まで降りてみたが、アンカーはなお下に伸び、ライトの照射のなかに海底は浮かびあがってこない。

 「おかしいな」と訝りつつも、アンカーが揚がらないでは船長もこまるだろうとの同情もあり、「もうちょっと、もうちょっと」という気持ちで、さらに水深を下げ、ちょうど七十五メートルに至ったとき、「バスン」という大きな音がしたかと思うと、その瞬間ライトが消えてしまい、周囲は闇と変わらぬ景色となった。

 当時、ライトに関しメイカーが保証している耐気圧は六気圧、水深にして五十メートルまでだから、ニ十五メートルも上回って水圧に耐えたわけであり、メイカー側の行き届いた配慮と、メイカー側への信頼が増す思いだったが、何も見えなくなってしまた環境のなかでやれることはなく、私は浮上にかかった。

 水深三十メートルまで上がってくると、周囲がうっすらと明るくなり、人心地がつく。アンカーを見ながら、水深三メートルに五分だけ減圧停止(減圧症にかからないための浅海停止)してから、海面に顔を出した。

 「四十から五十だなんて、嘘じゃないですか」

 ボートに揚がるなり、私は同行の税関職員に気色ばんで言った。

 税官吏は無線で甲板で待機していた船長と英語でやりとりしていたが、かえってきた言葉は、

「メートルでいった覚えはない。尋(ひろ)でいったはずだ」

 と言う。

 「尋」といえば、英語で「ファサム」というが、むかし船に従事する人間や猟師らが使ってきた深さの単位だが、一尋は両手を広げた長さをいい、一・八メートルということになっている。とすれば、「四十尋」と言ったとすれば、「七十ニメートル」、「五十尋なら九十メートル」にもなる。正直いって、エアタンクを使用した作業ダイバーとしては常識を逸脱した深度というしかない。

 「七十五メートルまで潜りましたけど、それでも下はなんにも見えませんでしたよ。そのうえ、ライトも水圧に耐えられなくて水没してしまいました。悪いですけど、この仕事を続けてやる気はありません」

「どうして?七十五も潜ったんだろ? とすりゃ、もうすぐじゃないか。そんなこといわないで、やってくれよ。こっちは船が動かなくなって困っているんだ」

 ボートを見下ろす船長の顔は確かに弱った顔に見えた。

「なにも見えない暗闇のなかで、しかも七十五メートルも潜っていながら、海底の水深が不明などという潜水はやっていられません。おことわりします」

「そんなこといわないで、頼むよ」

 船長の胸の内を察することはできる。三万トンクラスの船のアンかーが何かに引っかかっていたら、切断して新しいアンカーを用意する以外にここから動くことはできない。

「命がけでやる気はありません。ほかに頼んでください。もし受ける気のある作業所があれば・・」

 私の腹には、たとえ五十尋、九十メートル潜ってもアンカーまでたっすることができるのかどうかという疑いがあった。潜水作業を依頼しながら、メートルではなく、尋で言ったことに、私はことさらの意図を感じ、多くの船員を統率する立場の人間と思えば、一層不審をぬぐうことができなかった。要するに、船長への不信がこの仕事への意欲を殺いでしまったのだ。

 そのあと、追いかけるように響く船長の声を背に、私は税関職員を促し、ボートを埠頭へ向けてもらった。

 税官の事務所では仕方なくほかのサルベージ会社やショップに掛け合ったらしいが、事実を隠蔽するわけにもいかず、ありのままを告げると、どこの作業潜水会社からも断わられたと聞く。

 引き受け手がないのだから、貨物船の側でもほかに採る手段もなく、モーターをフル回転させて力まかせにアンカーを引き抜いたという。すると、アンカーの爪の部分にほかの船が棄てたらしい、これまた太いアンカーの鎖が引っかかっていた。そのあと、貨物船の船長は拾った鎖を港の管理者に渡さず、躊躇すらせず海に放り込んでしまったというから、船長の人格や人間性に対し、私が直感した人間像は間違ってはいなかったのではなかろうか。

 この経験では、ライトが七十五メートルより浅ければ、水没しないのだということを知ったことが利益といえば利益で、終わった仕事だった。


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