水中世界への挑戦「ケース8:海上自衛隊の夜間訓練時、深い海面で子供がにっと笑った」(その1)

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 語り手:沖縄県那覇市在T氏(元海上自衛隊・水中処分隊員)

海上自衛隊の夜間訓練時、深い海面で子供がにっと笑った(その1)

 海上自衛隊の特殊潜水セクションには深海での作業を専門とする「深海潜水隊」と、沿岸危険物を処理する「水中処分隊」があり、幾つものテストやチェックを経て、残った者がいずれかに配属されるというシステムになっている。残れなかった者は、いずれにも属することができず、他の部署への配属を甘んじて受け容れざるを得ない。当時、私は幸運にもその難関をクリアして「水中処分隊」に所属していたが、訓練の最中思いもよらぬ体験をした。

 とりあえずは、特殊潜水の訓練の模様から順を追ってお話しする。

 冬、神奈川県の横須賀港から掃海艇に乗り、朝早くから訓練に出た。甲板上には北風が吹きつのり、体が硬直するほど底冷えのする日だった。沖縄育ちの私は六・五ミリ厚のウェットスーツを着用しながら、あまりの寒さに震えていた。甲板上は寒風にさらされるため体感温度が極端に落ちるのだ。

 現場に着くと、隊長が、

「佐藤とT、ハンドソナーをもって」

と指示する。

 ハンドソナーとは探知機のことで、水中に放りこまれたダミーの物体を探しあてろとの命令だ。ダミーはむろん海中に艦船の破壊を目的に敷設された機雷を想定されてつくられたものだが、訓練は通常、アメリカ海兵隊と同じバディ・システムを採った。

 私は先輩の佐藤と二人、海に入ると、すぐハンドソナーのスウィッチを入れて潜降した。水深を下げるにつれ、甲板で震えていた体は寒風より温かい海水のなかで次第に落ち着きをとりもどした。

 水深二十メートルほどのレベルを起点に、ときに三十五メートル、ときに十五メートルと昇降しながらダミーを捜した。

 ダミーは簡単に見つかり、佐藤と私は浮上にかかった。海面に顔を出すとすぐ、「ストロベリー」と呼ばれるバルーンを空中に打ち上げた。ストロベリーにはCO2カートリッジが入っていて、ゴム風船状にふくらみ、空中に上昇するにつれ中に入ったロープがするすると伸びて、掃海艇のウォッチャーが視認できるという仕組みのものである。言うまでもないが、夜間の訓練時には、バルーンには点滅ライトが装着され、視認を助ける。

 ハンドソナーをもってダミーを探す訓練はこの日から数年後になるが、中近東でも湾岸戦争終了時、自衛隊の水中処分隊が近海まで出張り、機雷の除去への仕事に加わり、成果をおさめている。

 午後にはいって、「ジャックステー」という捜索を四人が一組になって行なった。

 この捜索はまず二百メートルのロープの両端に錘をつけておき、母船から投げ込んで沈め、、隊員がロープをまっすぐ伸ばすことにより海底に二百メートルの直線をつくる。これを「基線」といい、別の潜水者は三十メートルのロープをそれぞれ持って潜り、基線の端に達すると、そこから基線に対し直角にロープを張り、三十メートルの幅に四人が等間隔に並んでロープを握る。次いで、基線に平行に二百メートル移動しつつ捜索を行い、目的のものが見つからなければ、今度はユーターンして、再び二百メートルの基線を逆の側からもどってくる。それでも見つからなければ、基線そのものを六十メートル横に平行移動し、同じ捜索をくりかえす。要するに、六千平方メートル(200Х30メートル)の範囲ごとにつぶさにチェックしていくという捜索方法だ。水深が浅ければ問題ないが、深いと長くはやっていられない。

 このような訓練をくりかえして昼間の予定を終え、夕食にありつく。その間、掃海艇はさらに走り続けて、千葉県の南端にある館山に向かう。館山には自衛隊のヘリ基地があるばかりか、沖合いは潜水処分隊の訓練海域に指定されてもいる。

 夜八時になって、隊長から夜間訓練の開始が告げられた。

 すぐウェットスーツに着替えて甲板に出ると、「指定海域までゴムボートを走らせ、いったんアンカーを打ったうえでダミーを探索する」という訓練内容が伝えられた。

 ふたたび先輩の佐藤とバディを組み、母船から降ろされたゴムボートに乗り込んだ。

 背後には房総の山並みがぼんやりと黒く映っている。海にはうねりが入って多少荒れているが、月光がやけに明るく、佐藤の顔がよく見える。波しぶきをあげて指定された海域まで走ってアンカーを打ち、即座にエントリー。

 五分ほどでダミーを見つけ、浮上してすぐ、私からニメートルほど斜め後方にバディの浮上気配を感じた。

 「それではボートへ帰還を」と思った瞬間、私の前方一メートルのところに人間の頭がぼこっと浮きあがり、「えぇ?」と思いつつ凝視すると、佐藤ではないか。「だったら、うしろの人の気配はなんなんだ」と振り返ると、明るい月光を浴びた海面の上に子供の顔があり、私に微笑んでいる。見ると、子供は一人だけではなく、二人いるらしい。顔は見えないが、笑っている子供の影にもう一人いて、やはり私を見ているように思えた。

 「こんな遅い時間に、しかもこんな沖合いの深い海で、この子たちなにをしているのか」と思って、もういちどよく見ると、月光を正面から受けた顔がいやに青白く、子供は私の視線を避けることもなく、再びにっと笑う。とたんに、私は二人の子がこの世のものではないことを直感、背筋に寒いものが走った。と同時に、私は急いでフィンを蹴り、佐藤の腕をつかむなり、

「うしろ、うしろを見てみろ」

 と小声で言った。

 佐藤は私の後方を覗くようにしたかと思うと、そのとたん目つきを変え、ものも言わずにゴムボートに向かって全速力で泳ぎだした。むろん、私も必死に佐藤を追ったが、泳ぎながら足を引っ張られるのではないかという恐怖が全身を包み、佐藤に遅れまいと懸命にフィンを蹴る。

 ボートまで逃げて、後方を振り返ってみたが、月光下の海から子供の姿は掻き消えている。瞬間、全身に鳥肌が立った。私の口からも佐藤の口からも一言の言葉も出ない。われわれは即座にアンカーを抜き、エンジンを入れ、母船に急いだ。

 幼児二人の幽霊に怯え、泡を食って逃げたという図は恥ずかしくもあり、滑稽でもあるが、我々としても自衛隊で特殊な訓練を長い期間にわたって受けてきた、いわば海の強兵(つわもの)である。相手がK-1の格闘家でも、プロレスラーでも、ボクサーでも、場所が水中ならば闘って負ける気遣いはない。しかし、相手が明らかに非力な幼児であっても、それがこの世のものではない以上、第一に闘う相手ではないし、第二闘う術もなく、第三に接触を避けるのが最善の策であり、したがっては逃避あるのみという反射的な手法こそが我々が遭遇した場面での常識的でまともな判断だったと思う。

 私は沖縄生まれである。沖縄で最も激しい戦闘のあった南部には戦時中にここで亡くなった兵隊たちの出身地別に各県で慰霊塔を立てているが、摩文仁(まぶに)の丘の沖合いでは、真っ昼間だというのに、海面から人の手だけが何百本と出てきて、招くようにいっせいに「おいで、おいで」をするといい、この光景を初めて目撃した人は全身が硬直して、言葉すら出なかったという。私はこの話を聞いていたために館山沖での幼児二人の出現をリンクさせてしまったようにも思った。

 その夜、私も佐藤も目にしたことは誰にも話さないということで約束したが、横須賀に帰港したあと、佐藤と二人だけで酒を飲む機会があった。

「実は」

 と話し始めたのは佐藤だった。

「あのあと、おれ、館山のことをよく知っている先輩のところに行って、聞いてみたんだ。この人はあちこちでべらべらしゃべる人じゃないから安心してくれ」

「で?」

 私は佐藤の顔を固唾を呑んで見守った。

「そうしたら、その、その先輩、なんて言ったと思う?」

「・・・」

「何年か前らしいが、子供が二人であのあたりで遭難したらしい。行方不明のままだって聞いた。子供が二人で手漕ぎのボートに乗って、沖に出てさ、ボートが高波くって、ひっくりかえって遭難したらしい。といっても、誰かが見ていたわけじゃないから。警察による想像だがな。ただ、見つかっていない以上、二人の葬儀もできないし、供養もできないでいることは事実だろう」

 一週間後、同じ海域で、あの夜と同じように夜間訓練が行なわれた。内心「いやだな」とは思ったが、むろん断わることはできない。ぺアの相手には違う隊員であったが、佐藤と約束したとおり、前に目撃したことについては自分の胸にしまっておき、二人の子供と遭遇しないことをひたすら祈りながらゴムボートを出した。

 水中作業が終了するなり、ペアを組んだ男と同時に浮上し、よけいな方向は見ずに、ボートにまっしぐらに泳いだ。ボートに乗り、エンジンをかけ、母船に向かって端っている間も、まわりを見たり、後方を振り返ったりもしなかった。後方で二人の子供が笑いかけているような気がしてならなかった。

 母船に上がるなり、足から崩れるような気持ちで、傍目からはバタバタしているように見えたのであろう。同行者が「どうしたんだ?」と怪訝な顔を私に向けた。

 それからしばらくして私は沖縄に転勤、生まれ育った土地に常駐する身となり、館山に行かずにすむことをどれほどありがたく思ったか知れない。

(その2)に続く


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