中越地震が示唆するもの

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中越地震

 「インフラの整備」という言葉がある。

 日本は経済大国として高度に発達したインフラを持ち、発展途上国に対してはインフラの整備面で東南アジア、アフリカ、中近東、東欧、中南米と地球規模で協力している。

 そのインフラが自然の脅威に対してなすすべのないことが、中越地震によってあらためて露呈された。戦後、井戸に代わって水道が供給され、無線やラジオに代わってテレビ、電話、携帯、パソコンが普及し、各種の電化製品と運送手段が行き渡り、国民はそうした発展を謳歌してきた。ところが、それらの供給源が断たれると、井戸水が生活を助け、ラジオだけが情報を提供し、薪が料理を可能にするという、人間のやることがいっぺんに戦前に戻ってしまう。

 トイレがフラッシュ式でなくなることのみならず、水が出てこなくなることだけを想像しても、生活の激変がわかる。
 日本を目標として努力している発展途上国の人々がテレビを通じ、10万人余の日本人が避難生活をしている画面を見、信じられない思いを抱いたに違いない。と同時に、人類は経済力とは関係なく、自然の脅威に対し無力であることを認識する機会にはなったかも知れない。いや、インフラの整備が行き届いている国であるからこそ、人々にとってそれが失われたときのストレスもショックも大きく、手の施こしようのない思いに駆られるという事実をも知ったであろう。 その後に起こったアメリカのハリケーン被害者の映像からも同じ思いが否めない。
 戦後の60年、日本人が営々として築いてきたものがこんなに脆かったのかと思うと虚しいものが胸にあふれる。自然災害がインフラを簡単に破壊する一方で、インフラそれ自体が関与した環境破壊だけは消えずに残る。この皮肉には言葉がない。
 自然はいま日本人に対し「自然を舐めるな」と、「奢るんじゃないよ」と、警告しているのではないだろうか?
 「自然災害に保障なし」というのは事実。だから、政府はそのつど「特例法」とやらを議会にかけ、そのうえで、例えば「普賢岳」や「三宅島」「阪神大震災」などの支援をお役所仕事としてやってきた。公務員の手にかかれば、必然的に時間がかかる。

 日本という国は古来、「自然災害」から逃れられない宿命を負っている国、日本に居住するかぎり、だれがどこで災害に出遭わないとも限らない。にも拘わらず、この国のリーダーはいつでも、ことが起こったとき「対処療法」でことを収拾しようとする。この手軽な手法とはもう縁を切ったほうがいい。

 この国が自然災害から逃れられない土壌の上に存在することを真摯に認識することこそが求められている。

 文明の利器に依存した生活は利器が生むもうひとつ上等な利器にまた依存する生活を繰り返すというジレンマから逃れられなくする。永遠に前には戻れないというだけでなく、先端技術が生む利器が将来のいずれの日か、人間の手に負えなくなって、しっぺ返しされる可能性すらある。


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