政治献金の行方

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「政治献金の行方」


 本日、朝日新聞の「川柳」に、「献金を袖の下とはなぜ言わぬ」という句があった。


 つい過日も、国民の預金にほとんどゼロに近い利子しか払っていない銀行が政治献金を始めると発表したとたん、国民の総スカンを食って、急遽その案を引っ込めた。


 すると、こんどはキャノンが、儲かっている企業であることは知っているが、政治献金を始めることを宣言した。


 人間は利のないところに投資はしない。献金が企業にとって有効な策の一つであるからこそ、献金をする。

 

 政治家は「政治にも選挙にも金がかかる」というエクスキューズを頻繁に口にする。金のかからぬ政治、選挙の議論すらやったことがないくせに。金にまみれた汚らしい手はどんな洗浄手法を用いても清潔な手にはならない。


 なかには、政治献金を私服するやつまでいる。面(つら)の皮の分厚い、「蛙のツラに小便」みたいな、愧じを愧じとも思わぬ、倫理観を喪失した、破廉恥な政治家が存在するから、企業も、官僚も、同じことをする。「みんなでやれば怖くない」からだ。だからこそ、連日ようのうに、企業や官僚や政治家の悪事が新聞記事を飾rり、政治への不信が煽られ、支持政党などはなく、選挙すら生きないという国民が増える。誰が政権を取得しても、政治のありようがそう変わるとは思っていないからだろう。


 そういう政、官、財を見て、立候補者のツラを見る庶民の心持を考えたことがあるのだろうか? 選挙なんかに行きたくなくなるのが、まともな神経というものだが、選挙権を放棄する人間が多ければ、自民党にとって有利だなどという理屈があるとしたら、野党の採る手法になんらかの問題があるからに違いない。


 清く、美しく、正しく生きている、そういう人間のほとんどは貧しい人々である。貧しいがゆえに、高等教育も受けられず、金もないから、悪いことをしたくとも、悪いことのできる立場に立てないのだ。


 高潔なエリートとして生きてきた人物を、ある日突然、高いポジションを与えてみるといい。キャッシュがテーブルの下からも、袖のなかにも、引きもきらずに入ってくる状況に対処できるだろうか? これを拒絶するようだと、「人間が甘い。まだ若造で、青二才。人生の機微がわかっちゃいない。清濁をあわせ呑む度量、スケールに欠けた人物だ」というような非難、悪口が浴びせられる。しかも、「高潔であるだけの人間に政治はできない」という暗黙の諒解が、この国にはむかしあり、それをまた庶民がそんなものかと信じているという奇天烈なところがある。


 人間とは、なぜ、かくも、性悪にできているのだろうか。 私もそのうちの一人ではあるけれども。


 だいたい、日本の政(まつりごと)を行なううえで、あれだけの政治家の数が必要なのだろうか。


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