日本の子供の教育に対する要望

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 子供を私物化しない。別の人格の所有者と考える。

 子供の頭脳の柔軟さを軽視しない。子供の頭脳の吸収力は大人が思うよりはるかにレベルが高い。

 だから、できるだけ幼児語を使わず、はじめから大人として通用する言葉を使ってコミュニケーションを図るほうが時間の無駄を省ける。 そう考えるのも一法だ。ただ、難しい言葉を使った以上、子供に意味を訊かれたら、即座に、かつ正しく応じられる用意がなくてはいけない。

 もう一つ。

 子供にはできるだけ読書の機会と他の子供同士で遊ぶ機会とを与える。

 放っておけば、現今の生活環境から考えて、ゲーム、テレビ、漫画ばかりになってしまう。ゲーム、テレビ、漫画も悪くはない。しかし、読書や人間との触れあいには所詮かなわない。どういう点でかなわないか。それは「想像力」の育成においてである。同じ本を読んでも、感想も、脳裏に描いた光景も、人によってみな異なる、それが書籍の最大のメリットであり、読書によって培養された「想像力」が知識の拡大や薀蓄の幅をひろめたりするほかに、ときに途轍もない「直観力」へと導かれることがある。他人と触れ合うことにも、人間というものが一人ひとり異なる性格をもつことを知り、他人との、もっといえば社会との付き合い方を知り、そういう社会勉強はときとして極めて刺激的だからだ。

 かつてノーベル賞を取得した学者たちの発想の原点のほとんどは「直観」だった。その直観こそは、「想像力」の欠落した人間からは出てこない。発想の原点が想像力なのだと考えて欲しい。

 「直観」というのは、言葉を換えれば「ちょっとした思いつき」であり、「アイデア」であり、理屈や理論に優先し、あとで追随してくるもの。思いつきを可能にするのが想像力であり、読書と他人との触れあいがそれを援けてくれる。

 映像には限界がある。どんな映画もドラマも、原作には勝てないという真実がそれを暗示している。

 子供に対して、「おまえってダメだなぁ」などとはいってはいけない。「いやー、おまえにならできる。おまえの頭はおまえが思ってるかも知れないレベルよりはるかに上のレベルにある」というべきだ。

 さいごに、「うちの血統は、数学がダメなんだよ」とか「科学関係がねぇ」とか、そういうネガティブな姿勢を子供に見せたり言ったりしてはいけない。親がダメでも、子がハイレベルという家庭はいくらでもある。

 もし、子供がオタクだったら、「オタクでいい」といってやったらいい。「オタクには得てして天才がいる」「オタクには常人にない稀有の才能が芽生えることがしばしばある」と。天才的な大数学者や物理学者のなかには、オタク的性格の持ち主がごまんといる。ただ、オタクであってもいいけれども、時には外に出て、ほかの子供たちと遊ぶよう指導できたらもっといい。


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