アメリカ体験記「ヴェトナム戦争に参加した日本人」

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ヴェトナム戦争

 本ブログの2007年2月23日に「結婚、離婚を7回くりかえした男」の話を書いたが、その男、Tさんは元はといえば、父親と離婚したあとアメリカ人と結婚していた母親を追ってアメリカに入国したはいいが、だからといって国籍までは簡単に貰えなかった。

 その頃、アメリカはヴェトナム戦争の真っ最中で、兵士の募集に力を注いでいた。当時、Tさんは英語の「エ」の字も理解できず、むろん会話などは全く不可能というレベル、国籍を取るなら兵士募集に応ずるのが一番の早道とは母親の助言だったが、死の危険がつきまとうことは避けられない。とはいえ、NAVY(海軍)に入隊すれば兵役期間は陸軍の1年に比べ2年と長いけれども、「海軍の兵士が死ぬことはまずあり得ないから海軍に入ればいい」という母親の言葉に従い、ひそかに海軍への入隊を希望し、募集ポスターを探し歩いた。

 そうした時、たまたま目に入ったのが「Marine Corps」の募集ポスターで、英語を理解しないTさんは「Marine」は海のことだから、海軍だろうと思い込み、入隊希望の願書を送った。彼には「Navy」と「Marine」の違いが判断できなかったのだ。

 「Marine Corps」といえば、最近の映画にもなった硫黄島での過酷な死闘があったように、海軍や陸軍に先駆けて突出、敵陣へ特効的に攻撃することを使命とし、死ぬ確率は最も高い。

 しばらくして「新兵訓練のため、フロリダ州のマイアミに来い」という海兵隊からの指示書が届き、行ってみると、大きな沼地のなかに兵営があり、内部は新兵を鍛える練兵場だった。入り口は一つしかなく、そこには常時、監視の目が光り、逃亡を図って沼に飛びこめば、そこにはアリゲーター(アメリカ鰐)がうようよいて、食われること必至という環境。入所して初めて、そこが海軍ではなく海兵隊であることを認識したが、いまさら「だから、やめる」とは言えない。

 猥褻な歌を指揮官に従って歌いながら、全兵士は行軍の練習、果てはアンモニアの異臭で鼻が曲がりそうな男性トイレで匍匐(ほふく)前進までやらされ、だれもが往生したという。そのうえ、Tさんは英語が解らず、解らぬまま戦場に向かえば、上官からの命令にも指示にも従えず、他の兵士以上に死に近い立場となる。Tさんはこの場で鍛えられながら必死で英語を覚えた。

 1年後、マイアミからサンディエイゴに飛び、一時休暇をもらった後、沖縄の嘉手納基地からヴェトナムの中部海岸にあるダナンに飛んだところ、軍用機が降り立ったとたん「バン、バン、バン」という機銃の音がし、自分たちが置かれた境遇にあらためて目覚めた。

 海兵隊では昔から二人の兵士をバディ(ペア)とする方式が採用されていて、Tさんのバディは195センチという長身のニグロイド(黒人)、彼自身は156センチというチビ、このバディの取り合わせには周囲の友軍兵士らも笑いを堪えきれなかったという。

 ところが、数々の難度の高い攻撃に参加している最中、敵の一斉射撃を受け即死したのは体のでかい黒人兵士の方で、Tさんは前腕に貫通銃創を受けただけですみ、正式にはバディが即死状態でも、その体をかつぐか引きずるかして自軍のもとに連れ帰るのが常道だが、バディがでかすぎて到底連れ帰ることは出来ず、Tさんは黒人兵の認識番号(名前、血液型などが記入されている)だけを首から外し、それを持って、自軍に逃げ帰った。

 腕に貫通銃創を受けたTさんは戦場に来て、1年ちょっとという期間だったが、そのまま傷病兵を収容するハワイの病院に運ばれ、晴れてアメリカ国籍を得ることができたから、貫通銃創で病院に運ばれたことはむしろ幸運だったと言えるだろう。現在、その後遺症もない。

 私はむかしTさんのヴェトナム体験をまとめて、一冊の本にしようと目論み、数回にわたりインタビューを試みたことがあるのだが、途中で、私自身が転勤となり、この企画を放棄せざるを得なくなった。そのことには今でも残念だったという思いが消えずにある。


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