アメリカ体験記1 「初めての米国訪問」

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NYC
(写真はニューヨークの夜景)

「ハワイの果物」、「ニューヨークの摩天楼」そして「ジャズフェスティバルの地」

初めて海外に出たのは1967年、ハワイだった。ジェット機に乗ったのも初めて、日本ではまだパイナップルをはじめ外国産の果物が高価だった時代、果物を好き放題に食べられたことが忘れがたい記憶。土産に持って帰ったパイナップルを兄弟たちがむさぼるように口に入れた光景も脳裡の底に刻印されている。

大阪万博の前年、1969年、初めてアメリカ本土に飛び、ケネディ空港に到着する寸前、マンハッタンの上空から摩天楼を目撃したときは感動した。(上記の写真は摩天楼を形成するビル群)。

1970年5月から8月にかけて、ニューヨークを起点に、フィラデルフィア、ニューポート、ナイヤガラ、ピッツバーグ、デトロイト、ワシントンDCなどにセールスに出かけたり、遊び目的でドライブしたときのあれやこれやも忘れられない記憶だが、ジャズフェスティバルが一年に一度行われるニューポートに日本の自衛艦が停泊していて、自衛官らと出遭ったことには驚いた。また、帰路、ジャズに狂っていた私はもう一つのジャズフェスティバルで名を知られる西海岸のモンタレーにも寄り、フェスティバルの行われていない荒涼とした地を目に驚愕を隠せなかった。

私は若いころ、ジャズ、といってもスウィングジャズではなく、コルトレーンやマイルス・デイビスやハービーハンコックやソニー・ロリンズが出始めた、いわゆるモダン・ジャズにCrazyだった。初めて聞き惚れた曲はFMから流れたハービー・ハンコックの「カメレオン」で、東京に住んでいたこともあり、耳にした直後に秋葉原に直行し、レコードを入手。 ジャズを聞くために開発されたといってもいいJBLのスピーカーと、それを最大限に生かした音を保証するマンキントッシュのメインアンプとを入手することが夢となった。

以後、アメリカの都会、ロスアンジェルスでも、サンフランシスコでも、ニューヨークでも、シカゴでも、ホテルにチェックインするなり、黒人が運転するタクシーに乗り込み、「Take me to the Jazz Place」(ジャズプレイに連れてってくれ」と頼んだもので、アメリカに駐在している同僚には、度胸の良さ、というより無謀な行動にあきれかえられたものだが、「ジャズが聞きたくて東京からいま到着したばかりだ」というと、どの黒人運転手も喜びを隠さず、ジャズプレイスに着くと、私のことを店のオーナーに紹介してくれた。

店のオーナも、マイクをもち、「いま到着した日本人ははるばる日本からやって来て、ジャズを聞きにやってきたんだ」と紹介する。テーブルチャージの5ドルは免除されたばかりか、あっちからも、こっちからもビールの奢りが提供され、私はフリーチャージで、目と鼻の先で、日本で聞いたら数万円はとられる有名ジャズマン、ディジィ・ガレスピー(トランペット)、ソニー・ロリンズ(テナーサックス)、セロ二アス・モンク(ピアノ)、フレディ・ハバード(トランペット)などを、愉しむことができ、握手すらできた。それが無上の楽しみでもあった。

当時は、CDなどはなく、すべてレコードか、金のないやつはFM放送からテープでエア・チェックしたもので、私はジャズマン毎にテープをつくり、いまでも3百本ばかりを捨てきれずに持っている。不思議なことは、それから三十年近くが経過していながら、どのテープにも欠陥がなく、むかしのままの音が再現されることだ。マイルスの「死刑台のエレベーター」はいま聞いてもじんとくるし、ハービーハンコックの「カメレオン」を聞けば、水割りを飲みたくなるし、渡辺貞夫の「ムバ・アフリカ」を聞けば、踊りだしたくなるし、日野照正の「トランペット」やコルトレーンのラッパには天才の響きを感ずる。

ジャズ
(写真はニューポートでのジャズフェスティバル)


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