父の威厳・数学者の意地/藤原正彦著

「父の威厳・数学者の意地」 藤原正彦著
新潮社  1997年7月文庫化初版

 この作者の著作はすでに「祖国とは国語」(2006年2月3日)、「国家の品格」(2006年8月4日/2006年11月10日の2回)、「若き数学者のアメリカ」(2006年12月8日)、「心は孤独な数学者」(2007年3月23日)、以上、4冊について書評しており、本書で5冊目になる。

 本人は若い女性の読者を望んでいるようだが、実際には「国家の品格」と「祖国とは国語」を書いて以来、男性、それも実年以上の男性にフアンが増えたと聞く。抽象的な議論が内容の大半を占める事実からいっても、当然といえば当然の結果であろう。

 私自身、この作者の著作からは学ぶことが多く、かつまた反論したくなることもあるが、基本的には愛読者の一人。

 本書のエキスを以下に記す。(   )内は私の意見だが、文章に使われている文字を別の文字に勝手に変更したものもあることをお断りしておく。

1.第一感で事象や物事や学説の当否を捉え、判断する力が情報が多くなればなるほど必要となる。(情報量に応じ、直感的に物事の正否をジャッジする力量の重要性を意味している)。

2.人間は生まれてきた以上、死というものが前提にあるからこそ、情緒というものが生まれ、喜怒哀楽が濃厚になる。

3.アメリカのような訴訟社会は人間不信を助長し、自由であるべきはずの言動や行動を束縛し、社会を窒息させる。論理的であることこそが言動を正当化するとすれば、人間関係に間隙が生じ、円滑な関係を阻害する。

 (人間という生き物はそれほどロジカルには生まれついていない。多民族国家が訴訟社会になるのは理の当然だが、とすれば、アメリカという国に生きる以上、恒常的に窒息状態で、おおらかに他人を信ずることのできない社会に堪えるしかないということになる)。

4.人間の頭脳は完全な自由を扱いきれない。

5.「1960年代中頃の海外旅行に添乗員制度はなかったから父親(清水一行)は単独で海外に出た」(とあるが、この言い方では誤解を招く。

 (1960年代に添乗員制度は厳然と存在した。ただ、基本的に添乗員にかかるコストは団体の費用(ホテルや航空会社などでは15人に1人はフリーという制度が存在していた)でまかなえるようになっていたため、団体ならば添乗員がついたものの、個人が添乗員を希望するケースは1ドルが360円時代にはあり得なかった。

 アメリカ人富者が日本到着後に日本国内を旅行するにあたりガイドを帯同することは多かったが、アメリカから添乗員を同伴するなどということは、これもあり得なかったし、飛行機に乗るだけのことに同伴者など所望する人間などいるわけがない。日本人が海外旅行するにあたり、日本から添乗員を同伴することに意味はないし、現地でガイドを希望することはお金さえ払えば可能だった。

 もし、作者の父親が個人で海外に旅をするに際し、添乗員の旅行費用も全額負担する用意があれば、旅行社は喜んで現地の言葉に堪能な添乗員を提供したであろう)。

6.民放TVの番組でひっきりなしにUFO、超能力者、霊能者、超常現象などどいうものが放映されているので、これらに対する信頼度を大学の教室で学生に訊いてみたところ、文科系の学生は50%ほどは信憑性があると回答、一方、理科系の学生は信憑性は30%程度と答えた。私は信憑性は10%がいいところ、20%は無邪気な誤解、残りはすべてテレビ局や特定個人、あるいは両者の連携による悪質なインチキだと思っている。

 (全く同感)

7.フランス、イタリア、スペインには大画家が誕生しているが、イギリスには大画家は生まれていない。島国であり、芸術活動が伝わりにくいうえに、芸術のパトロンとなる教会や宮廷が稀だったのが原因。雨量の多さや深い霧も色彩感覚を育てる邪魔をした。

8.現代の若者は読書をしない。漫画やアニメばかり見ている。

9.「路傍の石」、「シャーロックホームズの思い出」、「ジャン・クリストフ」「戦争と平和」「カラマーゾフの兄弟」を30年以上蔵書としていながら未だに読んだことがなく、そのことが積年にわたり、焦燥と敗北感となって胸にある。(私にとっても同じ思いのあるのはドストイエフスキー、トルストイ、カフカ」である)。

10.ポルトガル人は豊かな涙を湛(たた)えた不思議の国の人達だった。日本を最初に訪れ種子島に鉄砲をもたらしたのがポルトガル人でよかったと思った。

 (日本史にはそう書かれ、そのように記憶もさせられたが、本当に史実かどうかは疑わしい。私は中国人倭寇が長崎県の離島、福江の殿様に持ち込んだのが最初だという気がしてならない)。

11.イギリス人は新しい家を欲しいときは古い空家を買うのが通例であり常識。そのため、イギリスの風景はいつまで経っても古色を残し、風情を失わない。イギリス人は古いものを尊ぶ。イギリス人の家で吹き抜けや冷暖房完備の家を見ることは滅多にない。彼らはそういう家を近代建築の倒錯という。

 (私に言わせれば、イギリス人の趣味は「古色蒼然たる建築への陶酔」である。だから、イギリスを訪れる人にはカビ臭い、陰湿な印象と、イギリス人の諧謔に満ちた発言に嫌悪を感ずる人が多いのではないか。さらに、地震や台風の頻発するわが国とは彼らの考え方自体が異なっていて当然)。

12.イギリスには無常観がある。人生などは暗闇に光る一瞬の閃光に過ぎない。

 (鴨長明の「行く河のながれは」を変えてみれば、そんな具合の言葉になるという印象はたしかにある)。

 あくせく成功と繁栄と進歩を求めるやからもいるが、人の世には進歩もあるが退歩もある。こうした思想はヴィクトリア時代の職人の巧緻な家造りや建築への賞賛と憧れへのノスタルジアがあるからだろう。とはいえ、彼らの無常観は彼らがやってきた歴史とは相容れない。

 この国にロココ建築が根付かなかったのは、地味であることがイギリス人の嗜好に合致していたからであろう。とはいえ、今世紀に入っても、人口一人あたりのノーベル賞受賞者の数はイギリスが図抜けて世界一である。

13.イギリスは階級社会。アッパー(上流)、アッパーミドル(中流上)、ミドル(中流)、ロウアー(下層)の4つに分かれている。日本の一億総中流は同時に上流と中流上が失われたことで、高尚な人間のいなくなったことを意味する。

14.イギリスのアーパーミドルはテレビを家に置いてない人が多い。テレビより、友人、知己らとの知的な会話や読書の方がずっと得るものが多いし、楽しいからだという。アメリカでも上層階級の人間の家にはテレビはない。テレビが人間を木偶(でく)の坊にするという、しっかりした考え、位置づけがある。(尤もな話だ)。

15.国際化が人類平和の必要条件というのは幻想。国際化の実験場ともいえるアメリカでは都市ほど治安が悪い。

16.イギリスでは自慢の範疇に入る話は慎むのがマナーだし、努力している姿を他人には見せたがらないし、口にもしない。(自慢話ほど醜いものはない)。

17.日本語は論理的でないという説があるが、九九は日本の奈良朝時代に始まった。ただ、論理的思考様式に拘泥しない日本語が日本人の思考様式そのものに影響をおよぼしている。ために言語を用いて思考するという点で、思考そのものを規制してしまう働きをもってしまう。言語が先か、思考が先かは別にして、この両者の不即不離の関係にある曖昧さに慣れ親しんでいる生徒達に数学の応用問題を解くときにだけ厳密さを要求しても、なかなか難しい。

 科学、技術の分野で世界に冠たる日本人が論理的に物事を考えたり表現したりできない不得手は、アメリカ人からは「不可解な日本人」と称されるだけでなく、狡猾で不誠実とも捉えられがちだ。

 論理性に欠ける日本語が欠陥言葉であるとか国際性に欠ける言語だと考えるのは誤りである。日本文学は曖昧さのなかで暗示的で美しい数々の名作を残してきた。

 日本語の曖昧さや漠然とした特性が、数学の新しい分野を切り拓いたり、思いつかせたりすることはあり得る。歴史的にも、日本社会は文学と数学において、多くの俊英を産み出してきた。単純に言語の曖昧さだけで、日本語には欠点が多いと結論づけるのは短絡。(「毒草」に出てくる江戸時代の医師、花岡青洲がトリカブトを使って麻酔薬を開発し、手術までしたのも世界で初めてと聞いている)。

18.日本の学校に欠けるものは個性や独創性への評価の低いこと。カリキュラムの進捗ばかりを配慮し、協調性ばかりを評価点にしていたら、十把一からげの人材を創ってしまい、一種の大量生産と非難されても反論できない。

 共通一次が導入されて以降、生徒は偏差値で幼児のころから輪切りにされてしまい、将来伸びるかも知れない芽を摘んでしまう可能性がある。小学生の頃、無味乾燥の教科書に関心を払わなかった生徒が大学に入って急に目覚めることもあるし、教師の教え方が悪かったために、底辺に置かれ、意欲を減退させてしまう場合もある。

 指示した課題だけをきちんと遂行する生徒だけが教官にとっては良き生徒というのでは、世界にはばたける子供は生まれない。円満で、突出することのない、没個性の生徒を見て安心しているような教師は将来の日本をダメにする。偏差値が高く、一流大学を卒業することと人間的スケールや人間的強靭さは無関係。

19.イギリスにニュートンが、マックスウェルが、ダーウィンが、ケインズが、ビートルズが生まれたことは、イギリス人の伝統を大事にする習慣に、日常的に縛られていることが反動となり、爆発する力を産んでいる。

20.イギリス人は金を沢山得られる職業に就くことを軽蔑するという伝統的な気風がある。だから、経済不振の国ともなっている。食事がまずいのも、生活での伝統による。(美味を追求するのは紳士の姿勢ではないというのがイギリスの紳士道だとは聞いているが、それ以前に、何が美味かを判断する味蕾が欠損しているのではないか)。

21.人類の犯す大愚行のほとんどはその時点で支配的な論理や教養に基づく。

 イギリス人は「小愚行はくりかえされても大愚行は決して起こらしてはならない。そのためには、移り変わる論理や流れを無視することが大切だ」と考える。

 (世に氾濫する情報や流行に右往左往する日本人とは全く異質の性格だが、最近頻発しているイギリス国内でのテロは愚行の結果ではなかろうか)。

 日本人は世の動きに対し機敏に対処してこそ、他企業との競合に破れず、企業の温存を図る手法と心得ている。

22.アメリカの改革を好む精神は伝統精神の希薄による。アメリカは実験国家であり、日本はそれを観察しつつ、彼らの改革の進め方、進み方、変貌、変容を見ながら、みずからを顧みるという手法が適切であろう。

23.アメリカを最も的確に特徴づけるものは自由でも民主主義でも平等でもなく、天よりさずかった比類なき土地の広さ、地下資源である。その意味では、アメリカは地球上の特異点といっていい。人間の知性や論理には限界がある。だから、アメリカの最高のエリートが熟慮を重ねたはずの施策がときに大失敗に帰する。ヴェトナムもイラクもアフガニスタンもそういった意味での例。とはいえ、アメリカの特異点が耐性を保証する。他国だったら破綻をきたしてしまうであろう失敗をしても、アメリカは再び勇猛果敢に這い上がって、新たな試みを行なう。

24.日本がかねがね大事にしてきた繊細さ、優美さに関する感受性は、いまや欧米のブランドに代表される、見た目に犯されて、失いつつある。武士道がもっていた名誉、誠実、忍耐、勇気、恥の意識、卑怯を憎む心も、消えつつある。

25.イギリスには「高貴な位置に就く者の義務」という言葉がある。

26.明治中期に日本を訪れたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)やジェンセスラウ・デ・モラエスは日本人の道徳観や行動原理に魅了されたが、同じ頃、アメリカを訪れた内村鑑三はキリスト教国であるアメリカ人の野卑と狂躁(きょうそう)に驚愕したという。当時、日本の家庭で鍵をかける人はいなかった。

27.大学の学生に新渡戸稲造の「武士道」を読ませたら、「封建制がつくった時代遅れのたわごと」という感想が聞かれた。

 (当時、新渡戸ほどの英語能力のある日本人は稀だったはずだ)。

28.天正の少年使節が16世紀に西欧を訪れ、19世紀には勝海舟や岩倉具視がアメリカを訪れ、いずれも欧米人は日本人の高い道徳観に目を見張ったというが、今の日本人はアメリカナイズされるか、利害得失だけを追うか、新興宗教に凝るか、いずれかに傾き、偏向している。いわば、座標軸というものをもたず、アイデンティティを喪失している。

29.欧米人はユーモアが好きだし、それが生活や人間関係の一部をなしている。

 (冗談や笑いのポイントは、それぞれ文化の違いによって異なる。欧米各国のユーモアを知り、それに日本人が合わせたり真似たりする必要は全くない)。

30.日本人は制服が好きだが、イギリスでは小学校からそれぞれ自由な服装が許されている。個性の尊重。

31.20年前、アメリカ人に、「同盟国である日本がソ連に侵略されたら、救援のためアメリカの青年が血を流すことを是認するか」との問いに、90%のアメリカ人が「No!」と答え、「では、イギリスが同じ目に遭ったら?」との問いには、80%が「Yes!」と答えた。(白人は助けるが猿は援けないということだろう)。

32.源氏物語やシェイクスピアは何百年経っても新鮮だが、数学論文に書かれた真理は10年も経たぬうちにより強力な定理や理論に呑み込まれてしまう。つまり、数学は進歩するが、人間性は進歩しないからだ。

33.ロシア人は数学ができるし、優秀な数学者も出ているから、大国である。が、中国には偉大な数学者は未だに出ていない。だから大国ではない。

 (アメリカに留学していた中国人のなかには立派な物理学者が存在する)。

 さいごに感想を述べさせてもらうなら、「数学関係」と「家族関係」とに分けて書くべきではなかったか。編集者の手抜きで目次を適当に並べたようにも思える。そして、子供時代、学校時代のスポーツの話(野球、サッカー、ラグビー)は本書から割愛したほうがよかったのではないか。どれをとっても、結局のところ、大成はしていないのだから、書くほどの内容ではない。むしろ、その分量を家族(両親、妻、子供)を書くことに向けたらよいのにと私は思った。


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