回り灯籠/吉村昭著

回り灯籠

「回り灯籠」 吉村昭著
副題:この世を飛び去るに及んできれいに死を迎えたい
「文学界」で2005年2月に発表されたもの
城山三郎氏との会談は2003年筑摩書房で収録
2006年12月初版 単行本

 本書は吉村昭の閣筆の書であり、エッセイである。

 以前にも、本ブログに書いたが、吉村氏の作品は90%読んでいて、なかでも「戦艦武蔵」「破船」「破獄」「熊嵐」「羆」「間宮林蔵」「魚影の群れ」「深海の使者」「生麦事件」「海の史劇」「高熱隊道」「零式戦闘機」「ポーツマスの旗」「関東大震災」「大黒屋光太夫」「伊号第33潜水艦」などなど、どれもが記憶に強く残っている。

 また、本ブログには「破船」を2004年10月19日に「生麦事件」を2005年8月2日に「海の祭礼」を2005年12月7日に「死顔」を2007年4月25日に、それぞれ書評している。どの本だったか忘れたが、解説の女性評論家が「吉村作品にははまってしまう」との言葉があり、私もその例に漏れなかった一人であったことを認識している。

 氏のエッセイに触れたのは初めての体験だが、作品を書く上での姿勢がエッセイからも匂ってき、人格に表裏のないことが窺える。彼は自分が驚き、感動したものしか書かなかったが、その対象が悉く私の性格に合致したというのも不思議な縁だった。

 最後のエッセイを読んで、上記した「大黒屋光太夫」の漂流物語を語るところで、温暖な地域で生まれ育った人間が凍傷にかかりやすいこと、東北以北で生まれ育った漂流者で凍傷になった事実にはお目にかかったことがないという一説は初耳だった。

 「関東大震災」との関連で、作品には書かれていなかったが、横浜の邸宅に居住するイギリス人が恐怖におののき、半狂乱に陥り、泣き叫ぶ妻を抱えて、家にある広い庭にしゃがみこんでいると、避難してきた日本人市民が自分らにもここに非難することを許可願いたいと、恐るべき沈着さをもって男も女も幼児も礼儀正しく申し入れてきたことには驚愕し、感激し、茫然ともしたという話が出ている。地震を初めて経験したイギリス人と地震慣れした日本人との差であろう。

 また。「伊号第33潜水艦」では、海底に沈没した潜水艦を引き揚げたとき、死んだ水兵らが慌てふためいた様子が艦内にまったくなく、死の光景には整然たるものがあり、このような事態に陥った欧米の水兵らは先を争って狂乱状態が彷彿するような死に様が窺えるという。当時の日本兵は武士(もののふ)であったに違いなく、死を覚悟すれば、慌てることなく、潔く死を迎えた様子や姿勢がありありと堅持されたことに頭が下がる思いだったが、これは当時の親が子供を育てるにあたって、こんこんと言い聞かせたことがいつまでも脳裡に焼きついていたことの所謂だと回顧している。現今の日本人に欠けているものである。

 日本人で最初に解剖用献体を自ら望んだのは吉原の遊女、美幾(みき)という34歳の女性。重症の梅毒にかかって死を覚悟、ねんごろに供養されることを聞かされ、進んで解剖に自らの体を提供したという話も初耳。

 梅毒はもともと日本にはなかった性病であるが、1512年にアメリカ大陸(源は南米と仄聞する)から急速に拡大、ヨーロッパを経由して日本に侵入し、猛威を奮ったという。官軍が戊辰戦争で江戸から奥州に進撃した際、官軍からもらった梅毒がその方面にも広がって蔓延したと伝えられる。当時は遊女屋が感染源ではあったが、これを検査する機能も良薬もなく、1910年ドイツの細菌学者と留学していた日本人の秦佐八郎とが協同して特効薬「サルバルサン」を発見。後に、イギリスのフレミングがペニシリンを開発、第二次大戦に使用され、さまざまな菌を殺すことに成功した。ペニシリンはまた肺結核で悩む日本人を多く救ったが、作者も救われたうちの一人である。

 さいごの「城山三郎氏との対談」で「夏目漱石の作品のなにがいいのか判らない」という点で、二人の意見が一致しているところが面白く、私も同意見だが、彼ら二人は、だったら、「田宮虎彦」「永井龍男」「大岡昇平」らの作品の方がはるかに上等な文学作品であると結論した。いずれ、これら作者の作品も読んでみたい。もっとも、大岡昇平の「レイテ戦記上下巻」はすでに本ブログで紹介している。

 本ブログを借り、あらためて吉村昭氏に数々の名作を残してくれたことに感謝し、あわせて氏の冥福を祈る。 


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