三四郎/夏目漱石著

「三四郎」 夏目漱石著
1948年新潮社より文庫化初版

 残念ながら、面白いとも、もう一度読んでみたいとも思わせてくれる内容のものではなかった。

 社会的な背景の違いというだけでなく、この作者に当て字が多いこと、意味がよく判らぬ句が少なからず存在することが、読み手にとって理解上の隘路になっているし、個性的な人物設定のなかで主人公の三四郎が最も存在感が希薄だという点にも、たとえそれが作者のここで用いた技法であるにせよ、けったいな人物構成との印象が拭えない。

 辛うじて、主人公のある女性への切なくほのかな恋心は伝わってくるものの、女の社会的地位の描写には若干疑問を感ずる。相手になっている女性の職業は何なのか、職業がなければ、一体何をしている人なのかも不分明。

 なかに「Pity’s akin to love」という懐かしい英語が出てくるが、私はてっきりこの英語は「吾輩は猫である」で議論された英語だと勘違いしていた。「可哀想だたぁ惚れたってことよ」という名訳がいまだに脳裡に残っているし、高校時代にこれを読んだおかげで「Akin to」が「-に似ている」という意味であることを了解した。

 解説で「漱石が形成した言語空間においてのみ活き続けている」との説明があるが、2007年1月8日に書評した「坊ちゃん」に比較して、文体はやや硬い調子になっている。

 とはいえ、1948年に初版された文庫本が2005年までに131刷目を迎えていることは、夏目漱石の魅力が今なお光っていること、若年層も読み手のなかに入っていることの証左かと、私としては首をかしげたくなった。

 最後に、一つの思わぬ発見があった。

 それは「全然」という言葉に関してである。2,30年前まで、この言葉は、「全く」と同様、たとえば、「全然問題ありません」というふうに、否定を前提とする言葉として使われ、ここ2,30年のあいだに肯定する場合にも使われるようになって、年配者からは必ずしも快い使い方ではないといった意見があった。ところが、本書に「全然」を肯定する文章に使うのを発見したのだ。明治時代にすでに肯定を前提にこの言葉が使われていたことは、私にとって一大発見といってもいいくらい楽しいものだった。


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